2024.04.01
4月
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令和6年(2024)4月5日「小笠原返還記念日(おがさわらへんかんきねんび)」です。

■令和6年(2024)4月5日「小笠原返還記念日(おがさわらへんかんきねんび)」です。■

小笠原諸島(おがさわらしょとう)は、東京都心の南方約1,000~1,800kmの太平洋上に散在する約30の島々の総称で、いちども大陸と陸続きになったことのない海洋島です。

小笠原群島:聟島(むこじま)、父島(ちちじま)、母島(ははじま)列島
火山列島(硫黄列島):北硫黄島(きたいおうとう)、硫黄島(いおうとう)、南硫黄島(みなみいおうとう)
3つの孤立島:西之島(にしのしま)、南鳥島(みなみとりしま)、沖ノ鳥島(おきのとりしま)

で構成されています。

これらの島々が存在することにより、日本の排他的経済水域(EEZ)の約3割という広大な海域が確保されています。行政上は東京都小笠原村(おがさわらむら)に属し、およそ2,900人の一般住民が父島と母島に暮らしています。

小笠原諸島は、文禄2年(1593)信州・深志城(のちの松本城)主の曾孫、小笠原貞頼(おがさわらさだより)により発見されたと伝えられています。

最初に定住したのは、捕鯨や交易のためにハワイから移住した欧米人と太平洋諸島民で、文政13年(1830)のことでした。以降、小笠原は日米のあいだで領有をめぐって翻弄されることになります。
嘉永6年(1853)いまだいずれの国の領土でもなかった小笠原の父島にペリー提督が寄港し、米国による領有化を図ります。
一方、日本の幕府は文久元年(1862)「咸臨丸(かんりんまる)」を父島に派遣し、小笠原の領有を宣言し、開拓団が八丈島から入りましたが、この領有・入植計画は頓挫しました。ちなみに、咸臨丸は安政7年~万延元年(1860)日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団を乗せ、日本の船として初めて太平洋を横断したことで有名です。父島に派遣された際に先住民との通訳を務めたのはジョン万次郎でした。

その後、江戸幕府や明治政府の調査・開拓により明治9年(1876)には国際的に日本領土として認められます。明治13年(1880)から東京府が管轄することになりました。

しかし、大東亜戦争で軍事拠点として父島全体が要塞と化し、局面の悪化により全島民が強制的に本土に疎開させられました。戦後、小笠原は米国の占領下におかれてからも、ほとんどの島民は帰島することが許されませんでした。

昭和43年(1968)4月5日、小笠原諸島を日本に返還する協定「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」が調印され、同年6月12日公布、26日に発効し、小笠原諸島は日本に復帰しました。島民の帰島がかなったのは実に23年ぶりのことでした。

しかし、硫黄島、北硫黄島、南硫黄島はさまざまな理由から現在も民間人の立ち入りが制限されています。
※冒頭写真:木の下で歓談する硫黄島の島民(1934年12月、全国硫黄島島民の会)

小笠原諸島は亜熱帯海洋性気候に属し、気温の変化が比較的少なく、しのぎやすい気候です。それぞれの島に多くの固有種・希少種が生息し、特異な生態系が形成されているということで、平成23年(2011)世界自然遺産に登録されました。独自の生態系から「東洋のガラパゴス」と呼ばれています。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

小笠原諸島は太古からいちども大陸や大きな島と陸続きになったことがない海洋島で、世界的にも貴重でかけがえのない自然の宝庫となっています。
豊かな自然環境が保たれていることには、戦時中の強制疎開などの歴史的経緯や火山活動などの自然条件によって、長いあいだ人間が足を踏み入れることができず開発の手が入らなかったという背景があります。

返還後も硫黄島や北硫黄島に立ち入れず帰島ができないままの人びとがいます。人が定住している父島・母島にも片道24時間の定期船が週に1~2便しかアクセスする方法がなく、航路の開設が求められています。
返還記念日を機に政治に翻弄された島々と人間の歴史に想いを馳せたいと思います。
筆者敬白

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