■9月19日「子規忌」です。■
「正岡子規:まさおかしき」は、俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に活躍した俳人で、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした明治時代を代表する文学者の一人です。
慶応3年(1867)9月17日、伊予国温泉郷藤原新町(現在の愛媛県松山市花園町)の松山藩士:正岡常尚の長男として生まれました。母は、藩の儒者:大原観山の娘です。
明治6年(1873)大原観山から漢書の読みを習い始め、明治11年(1878)に初めて漢詩を作ります。明治16年(1883)上京。翌年、東京大学予備門へ入学。この時の同級に、夏目漱石・山田美妙などが居ます。子規と号したのはその6年後、「子規」とは「時鳥(ほととぎす)の異名」で、23歳で喀血した時、鳴いて血を吐くという「時鳥」からとったものです。
「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあわず」「をととひのへちまの水も取らざりき」という辞世の句(人が死に際に詠む句)から、子規の忌日を「糸瓜忌:へちまき」といいます。別号から「獺祭忌:だっさいき」とも。
糸瓜水(へちま)は古来、咳止めに用いていました。をととい(一昨日)は十五夜で、中秋名月の夜に採った糸瓜水は効き目がいいといわれていて、それを採らなかったことを残念に思い言ったものです。
結核を患っていた子規、明治34年(1902)9月19日、36歳という若さでこの世を去りました。
日本に野球が入って来た頃、熱心に打ち込んでいました。文学を通じて野球の普及に貢献したことから、平成14年(2002)「野球殿堂入り」を果たしています。
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
子規忌は故人を偲ぶといった思いからお彼岸もあって掲載しました。
子規の深い死生感文学は現代にこそ必要でしょう。電子出版化されてPCやモバイルで読める日もうすぐでしょう。
読者の皆様、季節の変わり目です。お体ご自愛専一の程
筆者敬白