■9月23日「川柳忌」です。■
川柳の祖「柄井川柳(からいせんりゅう)」は、享保3年(1718)生まれ。江戸時代中期の前句付け(まえくづけ)の点者(てんじゃ)です。柄井家は代々江戸浅草新堀端の龍宝寺(りゅうほうじ)門前町の名主の家系。名は正通、通称は八右衛門、無名庵川柳と号しました。
江戸の町では「前句付け(まえくづけ)」という言葉遊びが流行しました。前句付けとは、「七七」の短句に対し、その前に来る「五七五」の長句を付けるというもので、連歌や俳諧の稽古吟として行われていました。
例えば、お題の「七七」の短句「切りたくもあり切りたくもなし」(前句)に、「盗人を捕らえてみれば我が子なり」(付句)を付けます。
前句付けは、「五七五」の付句を懸賞付きで募集したことから江戸で大流行しました。
「川柳(せんりゅう)」は雑俳(ざっぱい:俳諧が通俗化して言葉遊びとなったものの総称)のひとつで、前句付けの付句が独立した17字の短詩です。季語や切れ字などの制約はなく、口語を用い、人生の機微や世相・風俗をこっけいに、また風刺的に描写するのが特色。
連歌・俳諧・川柳などで、作品の優劣を判じて評点を加える人のことを「点者(てんじゃ)」または「判者(はんじゃ)」といいます。龍宝寺の門前で名主差配をしていた柄井川柳が、前句付けの点者として有名になり、明治になってから俳号の「川柳」がそのまま文芸の名になりました。現在、川柳の名は16代目・尾藤川柳が受け継いでいます。
初代川柳は都会的な句を採ることで人気を得て、のちに川柳風狂句の祖として仰がれるようになりました。あくまで点者であり、自身の作品は持たず、辞世の句とされる「木枯しの後で芽をふけ川柳」も出典が不確かです。わずか発句3点のみが彼の作品として伝わり、そのうちの一句「世におしむ雲かくれにし七日月」は、友人の子が亡くなった際の追悼句で、成長を楽しみにしていた子を惜しんで悲しむ心情を、これから満ちていく七日目の月を雲が隠す情景に喩えています。
寛政2年(1790)没。73歳。平成元年(1989)が200回忌でした。龍宝寺では、毎年法要と献句、句会などが行われます。川柳の墓がある龍宝寺は「川柳寺」とも呼ばれます。
天台宗龍宝寺(通称「川柳寺」)
◇東京都台東区蔵前4丁目36番7号
◇都営地下鉄浅草線「蔵前駅」徒歩5分
◇都営地下鉄大江戸線「蔵前駅」徒歩4分
◆金剛山薬王院 龍寳寺(天台宗東京地区):http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/ryuhoji/