■9月3日「旧八朔(はっさく)」です。■
「八朔(はっさく)」とは、旧暦8月1日のことで、「八」は「8月」、「朔」は「ついたち」の意。明治改暦後は、新暦8月1日または月遅れ9月1日になりました。
農家では、その年に取り入れた新しい稲などを、主家や恩人、知人に贈る風習がありました。のちに町家でも流行し、この日に上下貴賎それぞれ贈り物をするようになりました。
「田実の祝い(たのみのいわい)」「田実の節句(たのみのせっく)」ともいいます。「田実」とは「稲の実り」を意味し、これを祝うことから起こったといわれています。もともとは神への供物でしたが、「田の実」に「頼み」をかけて、頼み合っている人に恩を感謝するのだとか。
一方で、「八朔」は、8月1日頃に吹く強い風のこともいい、農家にとって「二百十日」「二百二十日」とともに「厄日」(三大厄日)として、収穫前の稲の大敵だと恐れられていました。
鎌倉後期より武家社会にもこの風習が取り入れられ、江戸時代には徳川家康の江戸城入城が「天正18年8月朔日」だったことから、幕府の重要な式日(しきじつ:儀式を行なう日)となり、正月に次ぐ祝日とされ、特に重んじていました。この日は早朝から大名諸侯が白帷子(しろかたびら)に長袴で将軍を待ち、同じく白帷子に長袴姿の将軍が諸大名や旗本たちに御目見(おめみえ)しました。
農家では、「八朔の苦餅」や「八朔の泣きまんじゅう」といって、ぼたもちを食して祝いました。というのも下男下女にとっては、この日以降、夜なべが始まり、辛い日々が待ち受けていたからです。
江戸の遊里吉原では、この日は紋日(もんび)〔※〕となっていました。遊女達は白無垢の小袖を着て客席に出たり、花魁道中を行ったりしました。
京都祇園では、今でも芸妓や舞妓が黒紋付で盛装し、お師匠さんや出入りの茶屋などへ挨拶に回る風習が残っています。
※紋日(もんび、もんぴ):日常と違ったハレの日。「物日(ものび)」の転訛(てんか)。主として遊里で五節句やその他の特別な日と定められた日。この日、遊女は必ず客をとらねばならず、揚代もこの日は特に高いうえ、客のほうも特別に祝儀を出すなどした。
ちなみに、みかんの一品種「八朔(はっさく)」は、1860年頃、広島県の寺の境内で偶然に発見された品種です。当時の住職が「八朔には食べられる」と言ったことから、「八朔」という名前がつきました。
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
旧暦の8月1日が「八朔」です。
この時期は風が強く台風の上陸が多い頃とされています。
暦の上では二百十日~二百二十日~八朔の時期が台風の時期です。
「季節の便り」を書いていると旧暦のほうが自然環境に適合しているのがわかります。
皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白