■10月11~13日 東京、池上本門寺「お会式」です。■
日蓮宗大本山「池上本門寺(いけがみほんもんじ)」は、弘安5年(1282)10月13日辰の刻、日蓮聖人61歳で入滅した霊跡です。
弘安5年9月8日、日蓮は病気療養のため身延山(みのぶさん)を降り、常陸の湯(ひたちのゆ、水戸市加倉井町)へ向かいますが、途中、武蔵国池上(大田区池上)の郷主・池上宗仲(いけがみむねなか)公の館で亡くなりました。
池上本門寺は日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつ。七大本山の一(他の六本山=清澄清澄寺、小湊誕生寺、中山法華経寺、北山本門寺、京都妙顕寺、京都本圀寺)。本尊は釈迦如来。
もともと「長栄山大国院本門寺」と呼ばれる寺でしたが、それは「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものでした。
日蓮入滅の後、法華経69384字に合わせて約7万坪の寺域を寄進した池上宗仲公の力で寺の礎が築かれたので、以来「池上本門寺」と改称されました。
大堂に安置される宗祖御尊像の左手の御持物「妙法蓮華経」は日蓮宗第一の参拝対象です。紺紙を用い、金字を金界の罫線内に1行17字あてで書写されたもので、旧国宝(昭和25年(1950)に公布された「文化財保護法」以前の法律で国宝に指定されていた文化財の通称)に指定され、現在は霊宝殿に格護されています。
旧大堂は、第14世・日詔聖人代の慶長11年(1606)熱心な法華信者・加藤清正(かとうきよまさ)公が、慈母の七回忌追善供養のために建立したもの。間口25間の大建築で、清正公が兜をかぶったまま縁の下を通ることが出来たと伝わります。その壮観さを江戸の人々は「池上の大堂」と称し、これに対して「上野(寛永寺)は中堂」「芝(増上寺)は小堂」と呼ばれました。
現在の大堂は、後の「日定聖人」が全国を行脚し、檀信徒並びに関係寺院からの浄財寄進を得て、昭和39年(1964)に再建されたものです。内陣中央の大型御宮殿(建築厨子)に「日蓮聖人の御尊像」を奉安し、左に第2世「日朗聖人像」を、右に第3世「日輪聖人像」を安置しています。
旧扁額「祖師堂」は本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)筆。惜しくも宝永7年(1710)に焼失しました。24世日等聖人代の享保8年(1723)徳川8代将軍・吉宗公の用材寄進で、当時の倹約令に従い間口13間に縮小されて再建されました。また吉宗公は、大岡越前守を普請奉行に、釈迦堂・大客殿・大書院なども建立寄進しています。その後、旧祖師堂以下すべて戦災で焼失しました。
◆お会式(おえしき)
11日:歴代先師聖人並びに池上ご護山会先師報恩法要、納経十種供養式法要。
12日:宗祖御更衣法要。聖人の御衣を夏物から冬物に改めます。午後からは宗祖報恩御逮夜法要が営まれます。夜には池上徳持会館から本門寺までの約2kmにわたり総勢約3千人の万燈練行列(まんどうねりぎょうれつ)が行われます。
お逮夜に当たるこの夜、一晩で30万人を超える参詣者で賑わい、僧侶が叩く大太鼓と信者達の唱題の声でお堂が震動するほど。
13日:臨滅度時(りんめつどじ)法要が営まれます。午前7時、入滅を告げる鐘を日昭聖人が打ち鳴らされたように「臨滅度時の鐘」を鳴らして遺徳を偲び、法華経を広め伝える誓いを新たにします。
池上本門寺
◇東京都大田区池上1-1-1
◇東急池上線「池上駅」徒歩10分
◇都営浅草線「西馬込駅」徒歩12分
◇JR京浜東北線「大森駅」バス20分
◇公式サイト:https://honmonji.jp
◆「お会式」ご案内(池上本門寺)
https://honmonji.jp/oeshiki/index.html
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
池上本門寺の大堂(祖師堂)外陣の「龍」の天井画は、大田区に住んでいた日本画の巨匠、川端龍子(かわばたりゅうし)画伯が依頼を受けて描いたものですが、完成を見ることなく亡くなりました。しかし、現代日本の代表的な日本画家のひとりである奥村土牛(おくむらとぎゅう)が眼を点じて開眼供養を遂げました。未完成の龍図は画伯の遺作として今も多くの人が訪れます。
池上本門寺から1km余りのところに大田区立龍子記念館(>公式サイト)と龍子公園があり、龍子作品と旧宅・アトリエを見ることができます。参拝の折りに足をのばしてみてはいかがでしょうか。(龍子記念館と龍子公園は工事のため12月上旬までお休みです)
筆者敬白