2025.11.14
11月

令和7年(2025)11月21~28日 京都、東本願寺「報恩講(ほうおんこう)」です。

■11月21~28日 京都、東本願寺「報恩講」です。■

鎌倉時代初期の日本の僧「親鸞(しんらん)」(承安3年(1173)4月1日ー弘長2年(1162)11月28日)は、浄土真宗の開祖「親鸞聖人(しんらんしょうにん)」と尊称されます。

浄土宗の開祖「法然(ほうねん)」を師と仰ぎ、生涯に渡り「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、それを高めることに力を注ぎました。

承安3年(1173)4月1日京都生まれ。現在の法界寺(ほうかいじ、真言宗醍醐派別格本山)日野誕生院(ひのたんじょういん、浄土真宗本願寺派)付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮の大進・日野有範(ひのありのり)の長男として誕生。母は、清和源氏の「八幡太郎」源義家(みなもとのよしいえ)の孫娘・吉光女(きっこうにょ)とされます。幼名は「松若磨」「松若丸」。

出家後、「叡山(比叡山延暦寺)」に登り、天台宗の僧として20年ものあいだ「不断念仏(ふだんねんぶつ、常念仏)」の修行を積みますが、自力修行の限界を感じるようになり下山します。

聖徳太子(しょうとくたいし)の建立とされる「六角堂(ろっかくどう)」(頂法寺の通称、京都市中京区)へ百日参籠し、95日目の暁、夢中に聖徳太子が示現され偈句(げく:「偈」は、仏の教法や仏の功徳をたたえる韻文のこと)を得ます。

夢告(むこく:神仏が夢において何らかの意思を示し告げること、または伝えられた内容)に従い、夜明けに東山吉水の「法然」の草庵を訪ねました。岡崎の地(左京区岡崎東天王町)に草庵を結んで、百日に亘り法然のもとへ通い聴聞。「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の教えに触れ、入門を決意します。「綽空(しゃっくう)」の名を与えられ、研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになります。

建永2年(1207)2月、興福寺(こうふくじ)の訴えにより専修念仏の停止と、4名を死罪、法然、親鸞ら8名が流罪となりました。この事件を「承元の法難(じょうげんのほうなん)」といいます。法然と親鸞は僧籍を剥奪され、法然は「藤井元彦」の俗名を、親鸞は「藤井善信(ふじいよしざね)」を与えられます。法然は、土佐国へ、親鸞は越後国府に配流されました。

親鸞は「善信」の名を俗名に使われたことから、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名乗り、非僧非俗の生活を始めました。以降も僧を名乗ることはありませんでした。

苦難に満ちた生涯を通して、生まれた意義と生きる喜びをひたすら尋ねた親鸞は、法然上人に出遇って念仏の教えに帰し、如来の本願に生き、自らの生涯を賭けて、帰すべき生の大地を「浄土真宗」として顕揚しました。

「三帰依文(さんきえもん)」には、「この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」とあります。自らの生のもつ真の意義を明らかにできないのが人間……といい、自己の生の真実に目覚めたつことが真の誕生…と説きます。如来の本願に帰して生きる新しい生の誕生を語り伝えています。

◆東本願寺「報恩講」

弘長2年(1262)11月28日、親鸞は90年の生涯を閉じ、京都は大谷の地に埋葬されました。ここに建てられた廟堂が、現在の「東本願寺(ひがしほんがんじ)」です。これは「西本願寺(にしほんがんじ)」に対して東に位置することから呼ばれる通称で、正式名称は「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」といいます。真宗大谷派の本山で「お東さん」の愛称で親しまれています。

慶長7年(1602)、真宗大谷派の第12代門主「教如(きょうにょ)」「徳川家康(とくがわいえやす)」から寺領が寄進され、この地に建立しました。

宗祖「親鸞」の祥月命日には「報恩講(ほうおんこう)」が行なわれます。親鸞の「御真影(ごしんねい)」を安置した「御影堂(ごえいどう)」での法話のほか、親鸞の主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(坂東本)の展示、昼食の「お斎(おとき)」(精進料理をいただく昼食)、合唱や吹奏楽のコンサートなどさまざまな行事が催されます。

真宗大谷派「東本願寺」
◇京都市下京区烏丸通七条上る
◇JR「京都駅」徒歩7分
◇地下鉄「五条駅」徒歩5分
◇京都市バス「烏丸七条バス停」徒歩1分
◇公式サイト:https://www.higashihonganji.or.jp
◆「報恩講」(東本願寺):https://www.higashihonganji.or.jp/lp/houonkou/

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