■11月23日 防府天満宮「御神幸祭(裸坊祭)」(ごじんこうさい、はだかぼうまつり)です。■
「防府天満宮(ほうふてんまんぐう)」は、学問の神様「菅原道真(すがわらのみちざね)」を祀ります。道真が亡くなった翌年の延喜2年(904)に創建された「日本最初の天神さま」です。
御祭神は
「菅原道真公(すがわらのみちざねこう)」
「天穂日命(あめのほひのみこと、天照大御神の御子)」
「武夷鳥命(たけひなどりのみこと、天穂日命の御子)」
「野見宿禰(のみのすくね、土師氏の祖)」。
かつては「松崎天満宮」「宮市天満宮」と称しました。明治6年(1873)近代社格制度のもとで県社に列格し「松崎神社」と改称。昭和28年(1953)に「防府天満宮」と再び改称しました。
京都「北野天満宮」、福岡「太宰府天満宮」、山口「防府天満宮」を「三天神(さんてんじん)」と呼ぶことがありますが、これは道真が宮中での権力争いで失墜し、九州の太宰府に流されていく道筋での宿泊地だったと伝わります。
延喜元年(901)道真公が左遷され、太宰府へ向かう途中、勝間の浦(かつまのうら:現防府市)に着船しました。当時の周防(すおう)の国司(こくし:中央より各国に赴任し、郡司を統督して庶政一般を掌る地方官)土師信貞(はじのぶさだ)が道真一行を迎え入れたことで、道真の薨後(こうご:死後)すぐこの地に神廟(しんびょう)を建てたことが防府天満宮の始まりと伝わります。
所蔵する宝物のひとつ、国の重要文化財『松崎天神縁起(まつざきてんじんえんぎ)』によると、延喜3年(903)道真が太宰府で没したとき、勝間の浦の海上に光明があらわれ、酒垂山(さかたりやま)には瑞雲がたちこめたそうです。
◆御神幸祭(裸坊祭)
例年11月第4土曜日、「御神幸祭(ごじんこうさい)」が行なわれます。御神幸祭は、菅公が立寄りの際、送迎をしたことに起因してその儀式を今に伝えるものです。御旅所はその際の遺跡で、浜殿奉行という役が当時の饗応になぞらえ供膳の儀を奉仕します。
もともと大行司・小行司や限られた家柄の者だけに奉仕が許されましたが、江戸時代後期の「天神信仰」の高まりと共に、一般民衆も奉仕を熱望するようになり、「身の潔白を示す」ことで供奉を許されるようになりました。人々は潔白の証として佐波川(さばがわ)の冷水で身を清め、そのままの姿で奉仕しました。その姿から「裸坊(はだかぼう)」と呼ばれるようになり、御神幸祭は「裸坊祭(はだかぼうまつり)」とも呼ばれるようになったのです。
寒中水垢離(みずごり)を落とし裸体となり、わずかに白木綿を身にまとって供奉する人が年々増えたことで、勇壮な祭典として広く全国に知られるようになりました。近年は裸坊は白シャツ等を用いて白装します。
防府天満宮
◇山口県防府市松崎町14-1
◇JR「防府駅」徒歩約15分
◇「防府駅」より「阿弥陀寺」行バス「防府天満宮」下車 徒歩3分
◇山陽自動車道「防府東IC」「防府西IC」約10分
◇公式サイト:https://www.hofutenmangu.com
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
菅原道真を現代風に談じると、出世争いに敗れ地方左遷の憂き目に遭った際、崇敬する志のある人々に乞われて逗留し、文化の基礎を伝授した功績が称えられ天満宮が造られた、といったところでしょうか。今も昔も組織の理屈は変わっていないようです。それにしても今の世に史実を伝える天満宮、歴史の中に人間らしさを感じます。
筆者敬白