2024.11.10
11月

令和6年(2024)11月19日「一茶忌」(小林一茶の命日)です。

■11月19日「一茶忌」です。■

小林一茶(こばやしいっさ)」は、江戸時代を代表する俳諧師のひとりで、松尾芭蕉、与謝蕪村と並び、俳句の世界に大きな功績を残しました。

本名は小林弥太郎。宝暦13年(1763)信濃の北部(長野県)の貧農の長男として生まれました。3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎えましたが、継母に馴染めず江戸へ奉公に出されました。奉公先を転々としながら25歳の時「二六庵小林竹阿(にろくあん こばやしちくあ)」に師事し俳諧を学びます。

29歳で故郷に帰り『寛政三年紀行』を書きます。翌年から俳諧の修行のため、近畿・四国・九州を歴遊。様々な俳人と交流し、句集『たびしうゐ』『さらば笠』を出版。

39歳の時、再び帰省し病気の父を看病しますが、1ヶ月後に死去。以後、遺産相続で継母と12年間も争うことに……。一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めながら遺産相続権の主張を続けました。

小林一茶旧宅(国史跡)。長野県信濃町柏原。一茶が最晩年を過ごした土蔵。

50歳で再び故郷に帰り、翌年ようやく遺産相続が和解。翌々年、28歳のキクを妻に迎え、3男1女をもうけますが、いずれも幼くして亡くしています。キクも痛風がもとで37歳の若さで生涯を閉じます。

2番目の妻を迎えるも、わずか2ヶ月で離婚。3番目の妻・ヤオとの間に1女・ヤタをもうけますが、一茶の死後に産まれ、明治まで生きて一茶の血脈を後世に伝えました。

文政10年(1827)6月1日、大火に遭い母屋を失います。焼け残った土蔵で生活をする一茶は、その年の11月19日その土蔵の中で65歳の生涯を閉じました。家庭的に恵まれない一茶でしたが、北信濃の門人を訪ねて俳句指導や出版活動を行い、俗語・方言を交えながら屈折した感情に基づく独自の作風を示しました。

一茶は当時からとても人気のある俳人でしたが、死後もますます評価が高まり、大正7年(1918)には教科書に一茶の句が載りました。
 雀の子そこのけそこのけお馬が通る
 やれ打つな蝿が手をすり足をする
 やせ蛙負けるな一茶是にあり

句日記『七番日記』『八番日記』『文政句帖』、句文集『おらが春』など、2万句にもおよぶ俳句を残しています。

11月19日、一茶記念館では、一茶を偲んで、法要・俳句大会・そば会などが行われます。

一茶記念館
◇長野県上水内郡信濃町柏原2437-2
◇JR「長野駅」~しなの線「黒姫駅」徒歩5分
◇上信越自動車道「信濃町IC」3分
◇公式サイト:https://www.issakinenkan.com

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

皆さん一度は一茶の句を耳にしたことがあるでしょう。200年近い歳月が流れた今もなお一茶の句は人々に愛されています。一部作品は英訳され海外にも伝わっています。
 ともかくも あなた任せの としの暮(一茶)
 Trusting the Buddha, good and bad,
 I bid farewell
 To the departing year.
〔英訳:鈴木大拙〕
「あなた」とは阿弥陀如来のことです。禍福は糾える縄のごとし。幸も不幸もどうしようもないけれど自分は阿弥陀さまを信じていくのだという一茶の素朴な気持ちが読み取れます。
災害や戦争など災禍はつぎつぎにやってきますが、変わらぬものに思いを馳せてみるのも心のゆとりです。
日に日に朝夕が冷え込むようになってきました。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆写敬白

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