■5月2日「飛騨一宮 水無神社(みなしじんじゃ)例祭」です。■
飛騨国一宮として歴史も古い「水無神社(みなしじんじゃ)」の祭神は、主祭神「御歳大神(水無神)」と配神「大己貴命」「三穗津姫命」「応神天皇」「高降姫命」「神武天皇」「須沼比命」「天火明命」「少彦名命」「高照光姫命」「天熊人命」「天照皇大神」「豊受姫大神」「大歳神」「大八椅命」をあわせて15柱で「水無大神(みなしのおおかみ)」と総称します。
式内社で、飛騨国一宮の総社。延喜式では小社に列格し、飛騨国の一宮であるとともに総社を兼ねました。鎌倉時代には「水無大菩薩」と称しました。
社名の「水無」は「みなし」「すいむ」「みずなし」とも読み、水主の意味です。
水無神社の南西に位置する「位山(くらいやま)」は標高1,529m、飛騨のほぼ中央に位置します。南に流れる水は飛騨川となり太平洋へ、北に流れる水は神通川となって日本海へと流れる分水嶺です。水無神社は、神代より表裏日本の分水嶺である「位山」を御神体とするとされ、水主、水分の神として崇められ、農耕・殖産祖神・交通守護の神として崇敬されます。
境内には「黒駒(黒馬)」が祀ってあり、伝承によると、昔この地方で夜な夜な稲を食い荒らす馬がいるので、村人が待ち伏せ後をついて行くと、馬は水無神社の境内に入って行き、黒い彫り物に変わりました。そこで村人は彫り物の黒馬の目を抜いたところ、それから馬は現れなくなったそうです。
この黒駒は飛騨出身の名工、左甚五郎の幼少の頃の作「稲喰神馬」と伝わります。見事な彫り物にこそ伝わる伝説です。
5月の例祭では、神代踊り、闘鶏楽、獅子舞などが奉納され、水無神社とお旅山の間を500余人の行列が練り歩きます。参拝者には「どぶろく」が振舞われます。
◆飛騨の大祭(ひだのたいさい)
5月3日から6日まで、水無神社が飛騨じゅうの神社を招請し、天下泰平、五穀豊穣などを祈願する式年大祭(しきねんたいさい)が行なわれます。
安永2年(1773)大原騒動〔※〕で荒廃した水無神社社殿の大造営を終えて、飛騨の人びとの心を奮い立たせるため、安永8年(1779)、飛騨じゅうの神社を招いたことが始まりとされ、飛騨地域の各神社で行なわれてきました。期間中は約300社、6,800人が参向し、10万人の人が飛騨を訪れます。
※大原騒動(おおはらそうどう):明和8年(1771)から天明8年(1788)にかけて飛騨代官大原彦四郎、亀五郎父子の執政のもとで断続的に起きた大規模な農民一揆。
飛騨一宮水無神社
◇岐阜県高山市一之宮町5323
◇JR高山本線「飛騨一ノ宮駅」徒歩約10分
◇東海北陸道「高山西IC」から約21分、中部縦貫道「高山IC」から約18分
◇公式サイト:http://minashijinjya.or.jp
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
明治7~10年、島崎藤村の父、島崎正樹が水無神社の宮司をつとめていたそうです。その父をモデルに、小説『夜明け前』の主人公(青山半蔵)は描かれました。
また、近くの臥龍公園内には、幹枝の形が龍の臥した姿に似ていることから「臥龍桜(がりゅうざくら)」と名付けられた一本桜が大きく枝を広げています。国の天然記念物。幾度の枯死状態から桜を想う人々の心によって、たくましく復活した樹齢1100を超える大樹です。
水無神社界隈には多数の名所があります。4月下旬、臥龍桜が見事な花をつけます。
時節柄、土地柄、お体ご自愛専一の程
筆者敬白