2024.03.23
3月

令和6年(2024)3月27、28日 東京品川、海雲寺(かいうんじ)「千躰荒神(せんたいこうじん)春季大祭」です。

■3月27、28日 東京品川、海雲寺「千躰荒神春季大祭」です。■

江戸三十三箇所観音札所番外、本尊に十一面観世音菩薩を祀る曹洞宗「海雲寺(かいうんじ)」は、建長3年(1251)僧不山によって開基。

はじまりは「庵瑞林(あんずいりん)」といい、海晏寺(かいあんじ)境内にあって臨済宗の庵でしたが、慶長元年(1596)海晏寺五世分外祖耕大和尚を開山とし、曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)海雲寺になりました。

◆「千体荒神」の由来
海雲寺本堂の横には千体荒神堂(せんたいこうじんどう)があり、千躰荒神像が祀られています。この千躰荒神は、明和7年(1770)に海雲寺に移されるまで、肥前国(佐賀県)佐賀藩の領主、鍋島家の江戸下屋敷(芝二本榎)に祀られていました。

もともと、この千躰荒神は肥後国天草郡荒神の原にあり、二荒神と呼ばれていました。寛永14年(1637)島原の乱の鎮圧のため、佐賀藩主・鍋島勝茂と勝茂の5男・直澄(なおすみ)は、江戸上屋敷から出陣しました。天草に到着した直澄は荒神の原の二荒神の社に必勝を祈願。佐賀藩勢は総攻撃によって劣勢にあった局面をくつがえし、反乱を平定しました。

戦いのさなか、出馬した直澄の先頭に千余の神兵が現れて、荒神王と思われる凄まじさをもって助太刀し、直澄は武勲をあげることができたと伝わり、津田敬順『遊歴雑記(ゆうれきざつき)』にも記されています。

千躰荒神は霊験あらたかとして、佐賀藩鍋島家の江戸下屋敷に遷座されたのち、明和7年(1770)海雲寺に勧請されました。

また、海雲寺本尊の十一面観音像は、品川沖でかかった鮫の腹から出た観音像と伝えられ、付近一帯の「鮫洲(さめず)」という地名の由来ともなっています。

◆千躰荒神大祭
千躰荒神大祭は、江戸時代から続く春と秋の例大祭のことで、毎年3月と11月の27、28日に千躰荒神王がご開帳となります。

荒神(こうじん)は、竈の神・火の神・水の神として知られ、火伏せ信仰の寺として多くの人が護符と荒神松を求めて参詣します。真言は「おん けんばや けんばや そわか おん あら はしゃのう あきに びぎゃら うん そわか」。

千躰荒神大祭では家内安全、火災消除を祈願して大護摩修行が勤行され、三宝荒神を祀れば心願成就、開運出世諸災消除、台所で一番大切な火と水を守る竃(かまど)の神様のご利益により、一切の災難を除き、衣食住に不自由しないとされています。

境内や門前の旧東海道には、縁起物のお釜の形をした名物「釜おこし」や、荒神松、くず餅などが売られるほか、多くの露店がたちならび参拝者で賑わいます。

 

海雲寺
◇東京都品川区南品川3-5-21
◇京浜急行線「青物横丁駅」徒歩2分
◇りんかい線「品川シーサイド駅」徒歩10分
◇公式サイト:https://www.skoujin.com

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

東京「品川(しながわ)」といっても、品川という川があるわけではありません。もともと、目黒川の下流から河口付近一帯の地域を品川と言いました。品川の名の由来は、目黒川の古名とする説と、上無川(神奈川の語源)に対して、下無川(しもなしかわ)が略されて品川になったとする説。高輪に対して品ヶ輪とした説などがあります。

目黒川は北品川と南品川の間を流れ、現在は天王洲アイルの南側で東京湾に注いでいます。旧東海道から沖合いの殆どが近代以降の埋め立て地となっています。

江戸時代には、東海道、江戸口の一番目の宿場町「品川宿」として栄えました。江戸の港町としても栄え、上方へ向かう廻船が品川湊から出航しました。また、日本初の鉄道が「品川-横浜(現在の桜木町駅)間」に敷設されたのは、明治4年(1872)6月のことで、これは「新橋-横浜間」に先立つ仮開業です。現在では東海道新幹線の停車駅になっています。

品川宿では千体荒神祭の他に、宿場祭り、虚空蔵尊祭、天王祭などが有名で、それぞれ大いに賑わいます。

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