■6月4日「伝教大師忌」です。■
日本の天台宗を開いた平安時代の僧「最澄:さいちょう」は、近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れました。俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。諡号:伝教大師
12歳で「近江国分寺」に入り、行表の弟子となりました。14歳で最澄と改名。19歳で東大寺で具足戒を受け、比叡山に登り大蔵経を読破。
当時の仏教は「国を護る」のが主な目的でした。僧は寺院外での活動を制限され、一般の人々に仏教の教えを説くことは禁止されていました。
奈良時代の仏教の考え方は「仏性は特定の人しか持つ事が出来ない」とされていました。仏性とは、人が生まれながらに持つ「仏となる能力」のことです。
最澄は、この考え方に疑問を持ち、「仏教の本来の姿は、一切衆生を救うことにあるはず」と考え、そして、比叡山に篭もって、様々な経典を読み研究します。
ここで「すべての人間の仏性は平等であり、人は誰でも仏になれる」という天台宗の考えに出会います。
804年、門弟の義真を通訳に連れ、空海と同じく九州を出発。天台山に登り「天台教学」を学びます。805年、帰国した最澄は、比叡山で天台宗の教えを広め、翌年の806年「天台宗」が正式に認められます。
天台宗では「法華経:ほけきょう」を最高の聖典とし、「仏を信じれば、誰でも仏になれる」と教えています。この考え方を「大乗仏教:だいじょうぶっきょう」といいます。
「四宗兼学」として、法華経・大乗仏教の戒律・禅・密教の4つを柱としています。
正式な僧になるためには、試験に合格し、戒律を授かることが必要です。戒律を授かる施設のことを「戒壇」といいます。当時は、戒壇は東大寺にあり、最澄はそこで戒律を受けています。
822年、病死。桓武天皇時代の年号「延暦」から「延暦寺」と改名。(※年号由来の寺名を持つ寺院は格式が高い)この後、延暦寺は仏教の学問の中心となり、後の時代に活躍した多くの僧は、この延暦寺で学んでいます。866年、朝廷より「伝教大師」という尊称がおくられました。
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
伝教大師忌を機会に先祖供養しましょう。梅雨どき前の命日に墓参をお勧めします。
もうすぐ「入梅」で、梅雨に入ります。梅雨が明ければ本格的な夏!今年は梅雨入り前から暑い日が続いています。読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白