2026.06.27
7月

令和8年(2026)7月5日「栄西禅師忌(えいさいぜんじき)」です。

■7月5日「栄西禅師忌(えいさいぜんじき)」です。■

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「明菴栄西(みょうあんえいさい、みんなんようさい)」は、鎌倉時代、日本に「臨済宗(りんざいしゅう)」を伝えた僧侶です。房号は「葉上房(ようじようぼう)」、諡号は「千光国師(せんこうこくし)」。廃れていた「喫茶」の習慣を日本にあらためて紹介したことでも有名です。

永治元年(1141)4月20日、備中国(びっちゅうのくに)に生まれました(生年月日については異説あり)。生家は備中国一宮「吉備津神社(きびつじんじゃ)」の神職を務めていた「賀陽氏(かもうじ)」だったと伝わります。

8歳で父に仏教の手ほどきを受け、11歳で真言宗「安養寺(あんようじ)」(岡山県倉敷市)の住職「静心(じょうしん)」に師事します。久寿元年(1154)、14歳で天台宗総本山「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」にて出家得度。

安養寺、延暦寺、伯耆国の大山寺(だいせんじ、天台密教の修験の道場)、備前国の金山寺(きんざんじ)、日応寺(にちおうじ)などで天台宗の教学と密教を学んで修行を積み、自分の房号を冠した「台密葉上流(たいみつようじょうりゅう)」を興しました。「台密(たいみつ)」とは、天台宗に伝わる「密教」のこと。真言宗に伝わる密教は「東密(とうみつ)」と呼ばれます。

「禅僧」のイメージが強い栄西ですが、このように、はじめは「密教僧」で、山中で厳しい修行を行なう「修験者」でした。それが宋への留学を機に「禅(ぜん)」に関心を持つようになります。

仁安3年(1168)28歳のとき、栄西は初めて入宋(にっそう)しました。当時の宋では「禅宗」が盛んでした。栄西は、形骸化し堕落した日本の天台宗を立て直すため「禅」を用いることを決意しました。そして、ふたたび入宋するまでのおよそ20年間、栄西は主に筑前国の「誓願寺(せいがんじ)」に滞在し、著作の執筆に専念しました。

2回目の入宋は文治3年(1187年)、栄西47歳のときでした。栄西はインドへの巡礼を希望していましたが政情不安のため許されず、やむなく帰国の途につきます。ところが、栄西の乗った船が暴風雨に遭って遭難し、浙江省(せっこうしょう)の南方、温州瑞安県(おんしゅう ずいあんけん)に漂着してしまいました。

しかし栄西は一念発起し、中国三大霊山のひとつ、浙江省北方にそびえる「天台山(てんだいさん)」に登り、萬年寺(まんねんじ)住持「虚庵懐敞(こあんえしょう)」の薫陶を受けました。建久2年(1191)、虚庵懐敞より「臨済宗(りんざいしゅう)」(黄龍派)の法脈を伝える印可を得て、「明菴」の号を授かって帰国。帰国後は、禅の布教に従事しました。

山門に「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ:日本初の禅寺)」の勅額を掲げる「聖福寺(しょうふくじ)」(福岡市)、鎌倉五山のひとつ「寿福寺(じゅふくじ)」、京都五山のひとつ「建仁寺(けんにんじ)」は、源頼朝(みなもとのよりとも)、北条政子(ほうじょうまさこ)、源頼家(みなもとのよりいえ)らの援助を得て、栄西が開山(かいさん)した寺院です。

日本の禅宗は25流あり、臨済宗から独立した黄檗宗(おうばくしゅう)を含めると47流になるとされています。そのなかでもいちはやく臨済禅を伝えた栄西は、日本で最初の禅僧だったといえます。

◆「茶祖」栄西 ―― 日本茶の父

帰国後、栄西は臨済宗の布教に取り組むなか、山岳密教の修験場「脊振山(せふりさん)」の中宮「霊仙寺(りょうぜんじ)」(佐賀県吉野ヶ里町)の庭に、宋から持ち帰った「茶(チャノキ)」の種を撒いて「茶の栽培」を始めました。霊仙寺跡は「日本茶樹栽培発祥の地」として知られます。

さらに、宋の禅院で修行の一環として日に数回行なわれていた「飲茶(やむちゃ)」の習慣の形式や作法「茶礼(されい)」も日本に紹介しました。

冒頭から「茶也、末代養生仙藥、人倫延齢之妙術也」(茶は、末代における養生の仙薬であり、ひとの寿命を延ばすに良い方法である)と説く、栄西の著書『喫茶養生記(きっさようじょうき)』は、日本最古の「茶書(ちゃしょ)」といわれます。そのなかには茶の種類、抹茶の製法のみならず、茶の薬効など茶にまつわる文化全般について書かれています。『喫茶養生記』にはそのほか「桑(くわ)」の効用と用法についても述べられています。

栄西は、自ら開山した聖福寺などの境内にも茶を植え、喫茶を奨励しました。京都市右京区「栂尾(とがのお)」の古刹「高山寺(こうさんじ)」の中興の祖「明恵(みょうえ)」が、栄西から贈られた茶の種を山内に植えて育て、里のひとに請われて宇治にも播植したところ、地形や気候が茶の栽培に適していたこともあり、味わいのよい上等なお茶が生産できるようになりました。これが日本三大茶のひとつ「宇治茶(うじちゃ)」のはじまりです。

建保3年(1215)7月5日、建仁寺で示寂。禅寺では生活そのものが修行です。そして栄西の伝えた禅の修行の日常規則には多くの茶礼が含まれていました。現在も、禅寺では達磨忌や開山忌などさまざまな行事で茶会が行なわれます。建仁寺では、栄西の誕生日である4月20日、4人の正客(四頭)が8人の相伴客を連れて出席する特別な喫茶儀礼「四頭茶礼(よつがしらされい、四頭茶会)」が開かれます。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

こうしてみると、栄西の業績は日本の「禅」文化の嚆矢とみなすことに何の問題もないように思われるのですが、そのわりに栄西はあまり人気がありません。とくに鎌倉初期は政治も社会も大きく変化した時代でしたので、そのなかで栄西が毀誉褒貶を集めることになったのでしょうが、時代を経たいま、栄西の成し遂げた仕事と後世への影響をあらためて評価すべきなのではと思います。
筆者敬白

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