■7月9日「鷗外忌(おうがいき)」です。■
「森鷗外(もりおうがい)」は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医学者、軍医、官僚。「夏目漱石(なつめそうせき)」と並ぶ文豪です。本名は「林太郎(りんたろう)」。石見国津和野(つわの、現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒。
代々津和野藩の御典医をつとめる森家に、文久2年(1862)誕生。祖父と父は婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生でした。幼い頃より『論語(ろんご)』や『孟子(もうし)』、オランダ語などを学び、藩校では「四書五経(ししょごきょう」を復読。当時の記録に「9歳で15歳相当の学力と推測」とあり、周囲から将来を期待されていました。
廃藩置県などをきっかけに10歳で父と上京。官立医学校への入学に備えてドイツ語を習得するため、進学予備校の「進文学舎(しんぶんがくしゃ、進文学社)」に通いました。ドイツ人学者を相手にドイツ語で反論して打ち負かすほど語学に堪能でした。著作ではドイツ語やフランス語などを多用しており、また中国古典からの引用も少なくありません。
大学卒業後は陸軍軍医、ドイツに4年間留学し、帰国後に訳詩編『於母影(おもかげ)』、小説『舞姫(まいひめ)』、翻訳『即興詩人(そっきょうしじん)』を発表し、また自ら文芸雑誌「しがらみ草紙」を創刊して文筆活動に入ります。
その後、軍医総監となり一時、創作活動から遠ざかりますが、文芸雑誌「スバル」創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁(がん)』などを執筆。『興津弥五右衛門の遺書(おきつやごえもんのいしょ)』発表後は、『阿部一族(あべいちぞく)』『高瀬舟(たかせぶね)』などの歴史小説、史伝『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』を書いています。
「帝室博物館」(現・東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)の総長、「帝国美術院」(現・日本芸術院)初代院長なども歴任。
大正9年(1920)に腎臓を病み、大正11年(1922)7月9日午前7時、死去。東京墨田区の向島「弘福寺(こうふくじ)」に埋葬。関東大震災のあと、三鷹市の「禅林寺(ぜんりんじ)」に墓が移されました。津和野町「永明寺(ようめいじ)」に分骨の墓があります。
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