■1月1日「元日」です。■
「元日(がんじつ)」は、国民の祝日のひとつで「年のはじめを祝う」ことを法定の趣旨として昭和23年(1948)に制定されました。
正月三が日を「元三日(がんざんにち)」と呼びますが、元日はその初日をさします。元日の朝を、特に「元旦(がんたん)」「歳朝(さいちょう)」「歳旦(さいたん)」「元朝(がんちょう)」などと呼んで一年の始まりを寿ぎます。「旦」は「朝、夜明け」を意味するので、本来「元旦」は元日の朝の時間帯を指すのですが、「元旦」を「元日」と同様の意味で使うひとも多くいます。
元日は、宮中の年中行事「元日節会(がんじつのせちえ)」〔※〕に由来します。元正天皇の霊亀2年(716)以来、文武百官を招いて年始を祝ったとされます。
一般の人たちにとっては「年神・歳神(としがみ)」が来臨するのを祝う「神迎え(かみむかえ)」としての大切な行事でした。それぞれの家々におのおのの祝い方があり、神社仏閣に初詣に行ったり、晴れ着をつけ屠蘇(とそ)をいただき、御節料理や雑煮で祝ったりしてきました。
「正月」は「一年の初めの月」をいいますが、新年の祝いや行事をも指します。1月を正月と呼ぶのは、「正」が年の初め、年の改まるの意に由来します。そもそも「正月」は「盂蘭盆(うらぼん)」と対応するもので、半年ごとに先祖の魂を迎えて祀る性質の行事でした。現在でも年頭墓参の行事が残る地域があります。
仏教の影響が大きくなるにつれ、盂蘭盆は先祖の供養など仏教的行事の意味合いが濃くなっていきました。正月は神祭りとしての意味合いが強くなり、年神様を迎え新年の豊作を祈る月として、年神の祭りとして性格づけられるようになっていきました。
◆正月とは◆
正月1・2・3日を「三が日」、これは現代でも一般的です。
元日から7日までを「松の内」または「大正月(おおしょうがつ)」といいます。
1月7日は「七日正月(なぬかしょうがつ)」「七種(ななくさ)の節句」で、「七草粥(ななくさがゆ)」を食します。
15日は「小正月(こしょうがつ)」です。「二番正月」「小年(こどし)」「若年(わかとし)」とも。
20日は「二十日正月(はつかしょうがつ)」です。ブリや団子を用いた正月料理を食べ尽くして祝う風習があります。「骨正月(ほねしょうがつ)」「団子正月(だんごしょうがつ)」とも。一般に正月の終わりは20日とされています。
「新年」とは新しい年、一年のはじめをいいます。暦法によって様々ですが、太陽暦では冬至を過ぎた頃に設定され、旧暦(太陰太陽歴)では立春の頃としています。
※元日節会(がんじつのせちえ):朝廷の年中行事のひとつ。正月1日、朝賀のあと天皇が文武百官を大極殿・豊楽院(紫宸殿)・豊明殿などに招いて行った年始の宴会のことです。奈良時代の初めには行われ、明治維新までの1200年間も続いた行事です。天皇が豊明殿に出御されます。
はじめに諸司奏と称する諸国の豊作の吉兆を天皇に申し上げる儀式が行われ、中務省(なかつかさしょう)が「七曜暦(しちようれき)」〔※〕を奉ります。
次に、宮内省が「氷様(ひのためし)」と「腹赤の贄(はらかのにえ)」を奉ります。氷様は、氷室に納めた氷を取り出してその厚さを天皇に申し上げる儀式で、氷が厚いほど目出度いとされました。腹赤(はらあか、はらか)とは鱒(ます)のことで、食いかけの鱒を順に取り伝え食べる儀式です。
そして、皇族・各将・各省大臣・各国大使などが饗座につき、三献(さんこん)の儀、奏楽などが行われます。
※七曜暦(しちようれき):「七曜の御暦(しちようのごりゃく)」のこと。日・月と五星(火・水・木・金・土)の七曜(日月火水木金土)が記入された暦。元日節会に、中務省の役人が陰陽寮(おんようりょう)に命じて天皇に進奉したもの。
■1月1日「年賀」です。■
「年賀(ねんが)」とは、1月1日から3日のあいだに新年の挨拶を述べるため、親戚や知人、上司、近所の家々を訪れる儀礼のことです。
古く村落社会では、家族親戚など血縁関係にある者などが本家に集まってともに大晦日を明かし、新年を迎えるというしきたりがありました。祖先の霊を祀り、五穀の豊作を祈って年神を祭り、一族郎党の団結を誓い合いました。血縁関係だけで生活していけなくなると、地縁関係へとこの風習が広がっていき、年頭の挨拶に出向くという形になっていきました。
江戸時代には、商家の主人が、供の者に扇子などのお年玉を持たせて年始回りに出歩くのが、新年のしきたりになっていました。明治時代になると、人力車の普及とともに回る件数も多くなり、その多さを競い合う風潮もあったほどです。年始客は扇子や葉書などを持ち、日頃お世話になっている家々を回り、年賀を受ける側も正式な接客でもてなしました。
普通、年賀の訪問は3日までの間ですが、遅くとも7日までには済ませるのが常です。