2024.02.22
2月

令和6年(2024)2月26日「良忍上人忌」です。

■2月26日「良忍上人忌」です。■

「良忍上人(りょうにんしょうにん、聖應大師)」は、延久4年(1072)尾州知多郡(現愛知県東海市富木島町)に誕生。父は領主で、母は熱田神宮大宮司の息女でした。

美声の持ち主だったところから幼名を音徳丸。12歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し「光乗坊良仁」と名のります。「良忍」と改名したのは大原へ隠棲して後のことです。比叡山では堂守りとして修業する傍ら、天台の学問、密教や戒律の修法にも努めました。

21歳で学侶(学問をする修行僧)を教導する講主に任ぜられることになります。しかし学問の議論ばかりが先行するなか、良忍上人は、伝教大師(最澄)が強調された道心(真の道)を追い求める心が薄れていることを嘆いていました。

時代は貴族社会に変わって武家政権に移行する動乱期でした。比叡山にも時代変革に伴う世俗化の波が押し寄せていたのです。
23歳にして良忍上人は洛北大原に隠棲します。「大原」は比叡山の別所として、念仏聖(ねんぶつひじり)や修行者が草庵を結び、ひとつの集落を形成していた地です。

大原での良忍上人は、往生を願う純心な念仏行者であったと『後拾遺往生伝(ごしゅういおうじょうでん)』『三外往生記(さんげおうじょうき)』から読み取れます。真摯な念仏行者であり、法華経の修行僧であったことが窺えます。

良忍46歳の永久5年(1117)5月15日「午の刻」、阿弥陀仏がお姿現し、速やかに「智慧(ちえ)」かがやき喜び溢れる幸せの世界に至る方法として「融通念佛(ゆうずうねんぶつ)」を授与されました。御文を「佛勅(ぶっちょく)」といい、「融通念佛宗」の教えの要となるものです。

ある時、鞍馬寺(くらまでら)の「多聞天王(毘沙門天)」がお姿を現して曰く、「あなたは先に仏さまから尊い融通念仏を授かったのに、どうしてそれを人びとに勧めて苦しみの衆生を救済しないのか」。このお言葉によって良忍は布教の時ようやく至ったことを知りました。

天治元年(1124)良忍は、はじめて市中に出て念仏勧進を始めました。その名は朝廷に達し、鳥羽上皇は良忍を招いて融通念仏会を修めました。さらに上皇は自ら融通念仏勧進帳(名帳)をつくり、帰信者に名を記させるべく自身も名前を録し、かつ序文をしたためました。

天治2年(1125)4月4日、良忍がお礼のため鞍馬寺で通夜念仏していると、またも「多聞天王」が現れ、神々の天の世界にまで「融通念仏日課百遍」を勧めた証拠に「神名帳」を授けられました。

その「神名帳」には梵天、帝釈、四天王をはじめとして、閻魔王界から地獄の役人に至り、かつ日本国内の八百万神の名が星のごとく連なっていました。神々もまた融通念仏の行者としての誓約をされているのです。融通念仏が神祇同音(じんぎどうおん)といわれるのはそのためです。

良忍上人は天性の美声の持ち主で、「魚山流声明(ぎょざんりゅうしょうみょう)」〔※〕を大成されました。これが声明業中興の祖として仰がれている所以です。大原には音無しの滝、呂川、律川など良忍上人の声明に因んだ名称が残っています。

※声明(しょうみょう):日本のあらゆる音楽の原点である仏教音楽のこと。洛北の大原の里は、中国声明の聖地「魚山(ぎょざん)」に因んで魚山と呼ばれ、慈覚大師(じかくだいし)の「天台声明」から良忍上人へと継承され、日本声明の発祥の地とされています。

融通念佛宗総本山 大念佛寺
◇大阪市平野区平野上町1-7-26
◇JR大和路線「平野駅」徒歩5分
◇大阪メトロ谷町線「平野駅」徒歩8分
◇公式サイト:https://www.dainenbutsuji.com

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

仏教音楽を「声明(しょうみょう)」と云うんだそうです。良忍上人忌ブログを書いていて初めて知りました。確かに通読暗記よりも発声暗唱の方が記憶に残ります。それに声明のような音階をつければ尚覚えやすくなるでしょう。眠たくなるのを我慢する長い営業会議や訓示も、「声明」を見習って覚えやすい節回しにしてもらいたいものです。とはいえ、それなりの修行を必要とするのでしょうね。
季節の変わり目です。時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白

この記事をシェアする
   

関連記事

人気のタグ

  • その他人気タグ: