■2月17日、日本三大奇祭 水沢黒石寺「蘇民祭」です。■
妙見山「黒石寺(こくせきじ)」は、聖武天皇天平元年(729)、奈良法相宗「薬師寺」五代行基和尚が東奥に行化してこの地に至り、渓山の幽秀を喜び、一堂宇を造り、薬師如来像を一刀三礼のもとに手刻安置し、次年に寺を建立し「東光山薬師寺」と号して開山されました。
旧暦正月8日、黒石寺で行われる裸祭り「蘇民祭(そみんさい)」は、災厄を払い五穀豊穣を願う「裸参り」のことです。
梵鐘の合図で、祈願者、厄年の善男善女が、手に角燈や割竹にはさんだ「浄飯米(おはんねいり)」を持ち、身を切る清烈な「瑠璃壺川(山内川)」に入り水垢離(みずごり)をしたあと「ジャッソー、ジョヤサ」(邪〈ジャ〉を正〈ソ〉すの略)の掛け声とともに本堂、妙見堂を三巡します。
祭りの山場は「蘇民袋争奪戦」。下帯姿の男たちが、厄除けの護符「蘇民将来(そみんしょうらい)」を入れた蘇民袋を奪い合います。
麻製の蘇民袋の中には「小間木」と呼ばれる疫病の護符が入っています。将軍木(カツノキ)を削った六方形には「蘇民将来子孫之門也☆」の九文字(☆は晴明紋)が書かれ、寸角に切ったもの。やがて小刀で袋が裂かれ、中の小間木がこぼれ落ち、集った善男善女はその小間木を拾ってお守りとします。
裸の男たちはさらに空になった袋の争奪戦をくり広げ、境内の外になだれ出て明け方まで激しい取り合いを続けます。最後に袋の首の部分を握っていたものが「取主(とりぬし)」となって争奪戦は終了。境内を出た集団が東に向かうか、西に向かうか、どちらの集団が凱歌を上げるかによって、その年どちらの土地が豊作になるかが決まるという占いの要素も持っています。
「黒石寺蘇民祭」は、岡山・西大寺「会陽」、大阪・四天王寺「どやどや」と並んで「日本三大奇祭」のひとつに数えられていましたが、残念ながら令和6年(2024)の開催をもって最後となりました。以下、黒石寺の公式サイトより引用――
令和7年以降の黒石寺蘇民祭について
令和7年以降の黒石寺蘇民祭については、実施しないこととなりました。
その理由は、現在祭りの中心を担ってくださっている皆様の高齢化と、今後の担い手不足により、祭りを維持していくことが困難な状況となったためです。
今後可能な限り祭りを継続することも検討しましたが、祭り直前での急な開催中止等、多くの皆様にご迷惑をかけかねない事態の発生を防ぐため、祭り自体を行わないという判断に至りました。
これまで長きにわたり、黒石寺蘇民祭の護持にご尽力いただいた皆様に心より感謝申し上げます。
また、蘇民祭を楽しみにしてくださっている皆様におかれましては、大変申し訳ございませんが、何卒ご理解を賜りたく、よろしくお願い申し上げます。
妙見山黒石寺 住職 藤波大吾
黒石寺
◇岩手県奥州市水沢区黒石町山内17
◇JR「水沢駅」よりバス30分、タクシー20分
◇JR「水沢江刺駅」よりタクシー15分
◇東北自動車道「水沢IC」より車25分
◇東北自動車道「平泉前沢IC」より車20分
◇公式サイト:https://kokusekiji.jp
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
1000年以上の歴史を持つ裸祭り「黒石寺蘇民祭」が今年で最後とのことです。関係者の高齢化、担い手不足が主な理由で、いずれも少子高齢化や地方の過疎化など容易に解決できない社会問題が背景にあります。非常に残念ですが、いつか問題が解決して、熱く荒々しい「蘇民祭」が蘇る日が来ることを祈ります。
この時期、季節の変わり目です。お体ご自愛専一の程
筆者敬白