2024.12.03
12月

令和6年(2024)12月9日「漱石忌」夏目漱石の命日です。

■12月9日「漱石忌」です。■

夏目漱石(なつめそうせき)は、慶応3年(1867)江戸牛込馬場下横町の町方名主、夏目小兵衛直克の末子として生まれました。本名「金之助」と名付けられたのは、生まれた日が「庚申(かのえさる、こうしん)」にあたり、庚申の日に生まれた子どもは大泥棒になるといわれ、それを避けるために名前に「金」の字を入れました。母は子沢山のうえ高齢で出産したので恥じたとか。漱石は望まれない子として生まれ幼くして養子に出されますが、9歳のとき養父母が離婚し実家へ戻されました。

第一高等中学校時代に正岡子規(まさおかしき)と出会い、彼に俳句を学ぶとともに生涯にわたる友情を結びます。

帝国大学(現・東京大学)英文科を卒業したあとは、愛媛の松山中学校、熊本の第五高等学校などで英語教師として勤めました。この頃から長く神経衰弱に悩まされることになりますが、一方で俳壇で活躍し始めます。

文部省から命じられて2年間の英国留学。帰国後、東大講師を勤めながら、文芸雑誌「ホトトギス」『吾輩は猫である』を発表、一躍人気作家になりました。『吾輩は猫である』執筆のきっかけは、神経衰弱に苦しむ漱石に、高浜虚子(たかはまきょし)が気晴らしに文章を書いてはどうかと勧めたことだそうです。その後、『倫敦塔』『坊つちやん』などの作品を立て続けに世に送り出しました。

明治40年(1907)、専属作家として東京朝日新聞社に入社。新聞紙上で『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『こゝろ』『行人』『道草』などを連載しました。言文一致の現代書き言葉を作った文豪として名声を博した一方で、『門』の執筆中に胃潰瘍で大吐血をし一時危篤状態になるなど、病気に苦しめられながらの作家生活でもありました。

大正5年(1916)12月9日、胃潰瘍のため死去『明暗』の執筆中でした。享年50歳。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから!」であったといいます。また、泣き出した四女の愛子をなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが最期の言葉とされることもあります。

漱石の遺体は、がん研究の世界的権威である病理学者、長與又郎(ながよまたお)によって解剖され、摘出された脳は現在も東京大学医学部に保管されています。重さは1452g。戒名は「文献院古道漱石居士」。墓所は東京南池袋の「雑司ヶ谷霊園(ぞうしがやれいえん)」です。

雑司ヶ谷霊園
◇東京都豊島区南池袋4-25-1
◇JR「池袋駅」徒歩15分
◇有楽町線「東池袋駅」徒歩10分
◇副都心線「雑司が谷駅」徒歩10分
◇都電荒川線「都電雑司ヶ谷停留場」徒歩5分
◇「雑司ヶ谷霊園」(都立霊園公式サイト):https://www.tokyo-park.or.jp/reien/park/index071.html

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

雑司ヶ谷霊園は漱石の『こゝろ』にも登場します。

墓地の区切り目に、大きな銀杏が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢(こずえ)を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉(こうよう)して、ここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります」といった。――夏目漱石『こゝろ』

霊園には、ジョン万次郎、小泉八雲、島村抱月、金田一京助、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、永井荷風、サトウハチロー、東郷青児、大川橋蔵など、多くの著名人が眠ります。

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