■12月17~19日 東京、浅草観音「歳の市(羽子板市)」です。■
「浅草観音(あさくさかんのん)」の正式名称は「浅草寺(せんそうじ)」。本尊は聖観音(しょうかんのん)。坂東三十三観音霊場〔※〕の札所13番。江戸三十三観音霊場〔※〕の札所1番。
もともと天台宗に属していましたが、大東亜戦争後に独立し聖観音宗の総本山となりました。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」「浅草の観音さま」と呼ばれ、広く親しまれています。
浅草寺の歴史は古く、都内最古の寺院です。明暦3年(1657)に観音堂の北に新吉原遊郭〔※〕が出来たことで人々が集まるようになりました。浅草寺の催事には大勢の人達が押し寄ましたが、なかでも「歳の市」は賑やかな行事のひとつでした。
「歳の市(としのいち)」とは、12月中頃から年末にかけて、正月の贈り物や縁起物、正月飾りや正月用品、日用品などを売る市のことです。
古く、人々がお正月を迎えるために、それぞれ余った作物や不要なった物を、物々交換していたのが始まりです。「歳末大売出し」などのセールや、植木市、ぼろ市、つめ市というのもこの名残。
東京では、浅草観音で行われる市がもっとも古い年の市です。年の市で売られるものは、しめ飾り・神棚・桶・餅・鯛・海老・昆布、羽子板・凧などの正月飾り。まな板や柄杓などの台所用品も並びます。新年を迎えるにあたり、新しいものを使い始めようという、日本の暦によって区切りをつける庶民文化を形作ります。
浅草寺の歳の市では、江戸末期頃より羽子板を売る店が増えました。羽子突きの羽根は虫を食べるトンボに似ていることから「悪い虫(病気)を食べる」、また、羽根の先端に付いている「豆」から「まめに暮らすことができる」など、羽子板はもともと縁起物として扱われていました。やがて女子が誕生した家に羽子板を贈る風習が盛んになり、羽子板が歳の市の主役になっていきました。こうして歳の市は「羽子板市」と呼ばれるようになったそうです。
※坂東三十三観音霊場(ばんどうさんじゅさんかんのんれいじょう):足柄山や箱根の坂の東一帯は「坂東」と呼ばれていて、その地域の侍を「坂東武者」と呼んでいました。源平の合戦で九州まで歩みを進めた坂東武者のあいだでは、敵味方を問わない戦死者の供養や永い平和祈願が盛んになりました。源頼朝の篤い観音信仰と、多くの坂東武者が西国で見聞した西国三十三観音霊場への想いなどが結びつき、鎌倉時代に「坂東三十三観音霊場」が開設されました。
◆「坂東三十三観音」公式サイト:https://bandou.gr.jp
※江戸三十三観音霊場(えどさんじゅうさんかんのんれいじょう):東京都内にある33箇所の観音札所のこと。「江戸三十三箇所(えどさんじゅうさんかしょ)」ともいいます。寛永18年(1641)から元禄11年(1703)のあいだに開設されたと考えられていますが、現在ではもっぱら昭和51年(1976)に改訂された「昭和新撰江戸三十三観音札所」のことを指します。
※新吉原遊郭(しんよしわらゆうかく):江戸幕府開設間もない元和3年(1617)日本橋葺屋町(にほんばしふきやちょう、現在の日本橋人形町)に幕府公認の吉原遊廓が誕生しました。
「吉原」の語源は、遊廓の開拓者が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説、葦の生い茂る低湿地を開拓してつくったが、「葦(あし)」が「悪し」に通じるのを忌んで「吉(よし)」に変えたとする説などがあります。
その後、明暦3年(1657)の「明暦の大火」で日本橋の吉原遊廓も焼失し、浅草千束村(せんぞくむら)に移転しました。この際、営業ができる土地の面積は5割増しに、夜間の営業も許可されました。以後、日本橋の方を「元吉原」、浅草の方は正式には「新吉原(略して吉原)」と呼ぶようになりました。
新吉原は、最盛期には3000人の遊女を抱え、中央の大通り「仲之町」には春には桜を、秋には紅葉を移植するなど、人工的な楽園を演出しました。
浅草寺
◇東京都台東区浅草2-3-1
◇都営浅草線・銀座線・東武鉄道「浅草駅」徒歩5分
公式サイト:https://www.senso-ji.jp
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
この時期、すっかり押し迫った師走の雰囲気で、街ではクリスマス商戦に入ります。歳の市から、正月準備と慌ただしい日々です。イルミネーションが燈り、きらきらと街路を照らします。
読者の皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白