■12月25日「蕪村忌」です。■
「与謝蕪村:よさぶそん」は、江戸時代中期の日本の俳人・画家で、松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧の巨匠のひとり。江戸俳諧中興の祖といわれます。蕪村以外の俳号は、宰鳥・夜半亭(二世)、画号は春星・謝寅など。
享保元年(1716)摂津国東成郡毛馬村(大阪市)に生まれ、20歳の頃に江戸に下り、早野巴人(はやのはじん・夜半亭宋阿)に師事し俳諧を学びます。
寛保2年(1742)27歳の時、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか
がんとう)の元に寄寓(仮住まい)し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊します。
寛保4年(1744)その手記を雁宕の娘婿の佐藤露鳩(さとうろきゅう)宅に居寓した際に編集し「歳旦帳(宇都宮歳旦帳)」はじめて蕪村を号します。
その後、丹後・讃岐などを歴遊し、42歳頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになり、45歳頃に結婚、一人娘・「くの」をもうけます。島原角屋※で句を教えるなど、以後は京都で生涯を過ごしました。
※島原角屋(しまばらすみや):角屋は今の料亭にあたる揚屋(あげや)という業種の店の建物です。間口が狭く、奥行きのある小規模の建物であったため、一階を台所および居住部分とし、二階を主たる座敷としました。その二階へお客様を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになりったそうです。 (出典:角屋保存会)
天明3年(1783)12月25日未明、居宅(京都市下京区仏光寺通烏丸西入ル)にて、68歳の生涯を閉じました。辞世句「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区の金福寺です。
洛北の「金福寺」は俳句の聖地といわます。元禄年間に和尚を芭蕉が訪ね親交を深めました。和尚は庵に「芭蕉庵」と名付け、いつまでもその高風を偲んだとか。
和尚の死後80年経ったある日、荒廃した芭蕉庵を訪れた蕪村が再興したのだそう。芭蕉の碑、芭蕉像、蕪村の遺愛品などが残されています。また、小説「花の生涯」のヒロイン・村山たか女が波乱の生涯を終えた寺でもあります。
金福寺
◇京都市左京区一乗寺才形町20
◇叡山電鉄叡山本線「一乗寺駅」徒歩15分
◇京都観光ナビ: