2026.08.03
8月

令和8年(2026)8月10日「西鶴忌」井原西鶴の命日です。

■8月10日「西鶴忌」です。■

「井原西鶴(いはらさいかく)」は、江戸時代前期の「俳諧師(はいかいし)」(俳句の宗匠)で、「浮世草子(うきよぞうし)」の作者です。本名は「平山藤五(ひらやまとうご)」、「井原」は母方の姓といわれます。

寛永19年(1642)ごろ、大坂の裕福な町人の家に生まれたとされていますが、詳細は不明です。最近では紀伊国中津村で生まれたという説も有力です。幼いころ父と死別し、家業を他人に任せて諸国を渡り歩きました。

若い時分から「俳諧」を嗜み、「談林俳諧(だんりんはいかい)」(談林派)の祖「西山宗因(にしやまそういん)」に師事しました。宗因の別号「西翁」の一字をとって「西鶴」と号しました。

西鶴は俳諧師として才能を発揮し、名を成しましたが、宗因の死後、談林派の勢いは衰え、俳文学の流れは「松尾芭蕉(まつおばしょう)」の「蕉風(しょうふう)」に移っていきました。

天和2年(1682)、西鶴41歳のとき、初めての小説『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)』を執筆し刊行しました。西鶴は「転合書(てんごうがき)」(戯れに書いたもの)のつもりでしたが、弟子に強く勧められ、大坂の無名の板元から私家版のかたちで出版すると予想外の大きな反響がありました。

『好色一代男』は、破天荒な構想と文体で描かれた一種の悪漢小説(ピカレスク)で、従来の「仮名草子(かなぞうし)」(仮名書きの物語、小説、実用書、啓蒙書など)作品とは一線を画していました。

評判を聞きつけた江戸の板元が当時大人気の浮世絵師「菱川師宣(ひしかわもろのぶ)」の挿絵で出版すると、これが大当り、江戸でもベストセラーとなりました。こうして『好色一代男』は、西鶴を売れっ子「草子作家」に押し上げたのみならず、その後およそ100年のあいだ続く新しい娯楽文学「浮世草子(うきよぞうし)」の時代の始まりを告げる画期的な作品となりました。

「浮世草子」とは、西鶴と西鶴以後、上方(京都大坂)を中心に(江戸でも若干)刊行された、当世の風俗を描く小説を指す文学史上での名称です。「浮世」には、「世間一般」という意味と「色事」「好色」といった意味があります。西鶴は、主な舞台に遊里や商家を選び、町人たちの生活をリアルに描きながらも、娯楽性のある浮世草子を確立しました。

『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ)』『好色五人女(こうしょくごにんおんな)』『男色大鑑(なんしょくおおかがみ)』などの好色物、『武道伝来記(ぶどうでんらいき)』などの武家物、大坂が経済都市として急速に成長した時代に「経済小説」の先駆けとなった『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら、にほんえいたいぐら)』『世間胸算用(せけんむねさんよう、せけんむなざんよう)』などの町人物、全国の珍談奇談を扱った説話文学『西鶴諸国ばなし(さいかくしょこくばなし)』のような雑話物など、『好色一代男』の刊行からわずか10年ほどのあいだに多くの作品を世に出しました。

元禄6年(1693)8月10日、大坂鑓屋町(やりやまち)の草庵にて没。52歳。西鶴の死後、最初の遺稿集として門人により編集、出版された『西鶴置土産(さいかくおきみやげ)』の巻頭には、辞世の句「人間五十年の究(きはま)り、それさへ我にはあまりたるにましてや 浮世の月見過ごしにけり末二年」が載っています。

『西鶴置土産』は、色道に身をほろぼした男たちの行く末が描かれています。序文で「世界の偽(うそ)かたまって、ひとつの美遊(びゆ)となれり」(世界の嘘がひとつに固まって「粋」という美しい遊びとなった)と、「粋」を嘘と言い切ったうえで、その嘘と色欲の果てにどん底の人生を生きる男たちのそれぞれの暮らしぶりを、おかしくも切なく、しみじみと描いていて、小説家西鶴の到達点となる作品だと後世高く評価されています。

西鶴の菩提寺は大阪市中央区の「誓願寺(せいがんじ)」。令和5年(2023)は井原西鶴没後330年にあたり、誓願寺では9月10日、墓前で供養を行ない、本堂では記念講演が開かれました。

大阪 四弘山 誓願寺
◇大阪府大阪市中央区上本町西4-1-21
◇地下鉄谷町線「谷町九丁目駅」徒歩約5分
◇近鉄大阪線「大阪上本町駅」徒歩約5分
◇公式サイト:https://osaka-seiganji.jp

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