2025.07.25
8月
雑節・歴注・撰日

令和7年(2025)8月1日「八朔(はっさく)」です。

■8月1日「八朔(はっさく)」です。■

「八朔(はっさく)」とは、「旧暦8月1日(朔日)」のことで、重要な「節日(せちにち)」のひとつです。または、その日に行なわれる祝い事のこと。「八」は「8月」、「朔」は「ついたち(第一日)」の意。明治改暦後は、新暦8月1日、地域によっては月遅れの9月1日に行なわれます。この日を「盆の終わり」として「八朔盆」と呼ぶところもあります。

「八朔節句(はっさくせっく)」「田実の節句(たのみのせっく)」「田実の祝い(たのみのいわい)」などともいい、「田実(たのみ:稲の実り)」を祝います。もともとは、稲の収穫を目前に控えて、未熟の稲を神に供えるなどして、豊作祈願や予祝の行事を行なっていましたが、「田の実(たのみ)」「頼み(たのみ)」をかけて、日ごろ頼み合っているひとやお世話になっているひとに贈答するようになったのだとか。「田物祝(たのものいわい)」「憑の祝い(たのむのいわい、たのみのいわい)」とも。

武家社会でも、鎌倉後期より「八朔」の風習が広く取り入れられるようになりました。江戸時代には、徳川家康の江戸城入城が天正18年8月朔日だったことから、幕府の重要な「式日(しきじつ)」(儀式を行なう日)となり、「正月」に次ぐ祝日とされ、特に重んじられました。この日は、早朝から大名諸侯が白帷子(しろかたびら)に長袴(ながばかま)の式服で将軍を待ち、同じく白帷子に長袴姿の将軍が諸大名や旗本たちに「御目見(おめみえ)」しました。

「昼寝は八朔まで、火燵(こたつ)は亥の子から」(昼寝をするのは涼しくなる旧暦8月1日まで、炉開きは旧暦10月の亥の日以後にせよ)という諺もあるように、この日以降は昼寝がなくなって「夜なべ」の日々が始まる、ありがたくない節句でもありました。そのため、八朔のお祝いに作る「牡丹餅(ぼたもち)」は、農家の下男下女や商家の奉公人にとっては甘くないという意味で、「八朔の苦餅(にがもち)」「八朔の泣きまんじゅう」などといいました。

江戸の遊里吉原では、「紋日(もんび)」〔※〕とされ、遊女たちが白無垢(しろむく)の小袖(こそで)を着て客席に出たり、花魁道中(おいらんどうちゅう)が行なわれたりしました。京都祇園では、今でも芸妓や舞妓が黒紋付(くろもんつき)で盛装し、お師匠さんや出入りの茶屋などへ挨拶にまわる風習が残っています。

※紋日(もんび、もんぴ):日常とは異なる「ハレの日」。「物日(ものび)」の転訛(てんか)。主として遊里で五節句やその他の特別な日と定められた日。この日、遊女は必ず客をとらねばならず、揚代(あげだい)も高いうえ、客のほうも特別に祝儀を出すなどした。

ちなみに、ミカン科の柑橘類「ハッサク」は、万延1年(1860)広島藩「因島(いんのしま)」の寺院「浄土寺(じょうどじ)」の境内で発芽しているのを、時の住職「小江恵徳上人(おごうえとくしょうにん)」が発見し、それを原木として因島を中心に栽培されるようになったといわれています。小江恵徳上人が「八朔(旧暦8月1日)には食べられる」と言ったことから「ハッサク(八朔)」と命名されたと伝わります。

また、「八朔」は、旧暦8月1日頃に吹く強い風のこともいい、農家にとって、「二百十日」「二百二十日」とともに「厄日(やくび)」(三大厄日)として、収穫前の稲の大敵と恐れられていました。「八朔荒れ(はっさくあれ)」とも。作物に暴風の被害がないように祈願する「風祭(かざまつり)」は「二百十日」前後に行なわれることが多いのですが、土地によっては「八朔」の行事になっています。

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

8月に入り、そろそろ暑さも「残暑」となります。滋養のあるものを食して、夏に消耗した体力を補いましょう。暦の上では台風の季節が始まります。強風による被害や交通機関の乱れなどが起こる時期です。近頃は、局地的で突然の大雨が降るなど天候が不安定です。お出かけの折には天気予報をご確認ください。
読者の皆様、まだまだ暑い日が続きます。お体ご自愛専一の程
筆者敬白

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