■8月6~7日 東京佃、住吉神社例祭「佃祭(つくだまつり)」です。■
「佃祭(つくだまつり)」は、佃島(つくだじま)の鎮守「住吉神社(すみよしじんじゃ)」の例祭です。3年に1度の「本祭り」では、獅子頭の宮出しや八角神輿の宮出し、神輿を船に乗せて氏子地域を巡る船渡御が行なわれます。※本年は陰祭(かげまつり)なので神輿渡御、獅子頭宮出し、大幟の掲揚はありません。
かつて「佃島(つくだじま)」は、隅田川の河口に浮かんでいた小島でした。上洛した徳川家康(とくがわいえやす)を摂津国西成郡(大阪市西淀川区)の佃村と大和田村の漁民が助けたことで縁が生まれ、両村の漁民たちはその後も家康の用を諸事引き受けました。家康の関東下降の際、江戸へ下った漁民33人と神職・平岡権太夫好次らは、寛永年間に幕府より下賜された鉄砲洲向かいの干潟を埋め立てて築島し、故郷の名をとって「佃島」としたのが、江戸の「佃」という地名の始まりです。
家康は漁民に「漁業権」を与え、その代わりにとった魚の一部を献上させました。佃の漁民のなりわいは、築地魚河岸に移転する前の「日本橋魚河岸」の基礎となり、江戸市中に海産物を供給する漁村として発展しました。
正保3年(1646)6月29日、「住吉三神(すみよしさんじん:底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命)」「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)」「東照御親命(あずまてるみおやのみこと:徳川家康)」の御神霊を奉遷祭祀し、「住吉神社」としました。
佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業や各問屋組合をはじめ多くの人びとから海上安全、渡航安全の守護神として崇敬されました。
その後、月島、勝どき、豊海、晴海と佃島の周辺は埋め立てられ、大規模開発が進み、近年では超高層ビル群もできましたが、今もなお住吉神社は地域の産土神(氏神)として信仰されています。
◆佃祭(つくだまつり)
住吉神社の例祭「佃祭(つくだまつり)」は、徳川四代将軍家綱の誕生を祝って始められたといわれ、幕府に許可された由緒ある祭りとして今日に至ります。
住吉神社の宮神輿は「八角神輿」の名のとおり、八角形をしています(中央区民俗有形文化財)。昭和37年(1962)までは神輿を担ぎながら隅田川に入る海中渡御が行なわれていました。神輿渡御の前日には、佃住吉講の若衆らによって獅子頭で街全体の邪気を祓い清めます。
3年に1度の本祭りでは、高さ18mを超える大幟(おおのぼり)が6本揚げられます。あわせて「黒木鳥居(くろきとりい)」も建てられると、佃島全体が住吉神社の境内、つまり神域に変化します。
住吉神社
◇東京都中央区佃1-1-14
◇東京メトロ有楽町線・都営大江戸線「月島駅」6出口 徒歩5分
◇公式サイト:https://www.sumiyoshijinja.or.jp
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
佃祭というと、落語の演目「佃祭」を思い出すかたも多いかもしれません。「情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため」というようなことを言いますが、なかなか人に情けをかけるのは難しいものでございます……と、始まります。
お玉ヶ池で小間物屋を営む次郎兵衛は、佃島の住吉神社の祭りを見物に出かけ、終い船(しまいぶね:渡し船の最終便)に乗りかけると、女に袖を引かれ乗らずに留められました。
その女は「3年前に5両のお金をなくして吾妻橋から身を投げようとしていた若い娘を助け、5両のお金を恵んでくれたのを覚えておいでですか」と次郎兵衛に尋ねました。
次郎兵衛は過去の出来事を思い出し、女の家に呼ばれて酒や佃煮など魚料理をご馳走になっていると、なんと先ほど次郎兵衛が乗るはずだった終い船が沈み、乗客はみな溺れ死んでしまいます。
次郎兵衛が乗った船が沈んで、どうやら死んだらしいというので妻や長屋の連中はさっそく通夜を始めます……。
その悔やみの口上もまたたまらなく面白いのですが、サゲまでは明かせません。どなたか名人の演出で味わうのがいちばんです。下町情緒あふれる町並みと超高層ビル群が隣り合う佃島の景色を見るにつけ、せめて落語のなかだけでも江戸っ子の人情とユーモアが末永く生き生きと残ってほしいものだと感じます。
筆者敬白