■8月2日「鬼貫忌」です。
「上島鬼貫(うえしまおにつら、うえじまおにつら)」は江戸時代中期の俳人です。古歌のもじりや言葉遊びを専らとするそれまでの俳諧を文学作品に高め、「東の芭蕉・西の鬼貫」と称されました。
鬼貫は、万治4年(1661)、摂津国川辺郡伊丹郷(現在の兵庫県伊丹市)の酒造業者、上島宗次の三男として生まれました。当時、伊丹では貞門(ていもん)流の俳人が活躍しており、鬼貫も幼少の頃より俳諧に親しみました。13歳で松江重頼(まつえしげより、俳号「維舟」)に師事し、そののち西山宗因(にしやまそういん)の談林派(だんりんは)に入門しました。
25歳で医学を志し大坂へ出て、やがて筑後国三池藩、大和国郡山藩、越前国大野藩などに出仕し、京都留守居役をつとめました。
伊丹では裕福な旦那衆が遊芸として俳諧を楽しんでいたなかで、鬼貫は独自の俳諧のあり方を追求し、「まことの俳諧」に到達しました。もともと戯れごとでしかなかった俳諧に「まこと」の理念を導入したことは、文学史において画期的な出来事でした。
著書『独ごと(ひとりごと)』に記された「まことの外(ほか)に俳諧なし」という言葉には、鬼貫の俳諧観が集約されています。
元文3年(1738)大坂鰻谷(現在の大阪市中央区鰻谷)にて死去。墓は大阪市天王寺区の鳳林寺(ほうりんじ)、北区の鶴満寺(かくまんじ)、伊丹市の墨染寺(ぼくせんじ)にあります。
忌日の「鬼貫忌」は、明治36年(1903)、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が雑誌「ホトトギス」で、「鬼貫忌」の題で句を募集して以来、秋の季語として定まりました。