2023.04.04
4月

令和5年(2023)4月7日 法然上人誕生会 です。

■4月7日「法然上人誕生会」です。■

法然上人(ほうねんしょうにん)」は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧侶で浄土宗の開祖。真宗七高僧の第七祖。円光大師、「法然」は房号で諱は源空。幼名は勢至丸。

長承2年(1133)4月7日、美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるまときくに)と、母・秦氏君との間に誕生。夫婦には子供がなかったので観音様に一心込めて子の授からんことを願い、やがて4月7日玉のような男の子を賜ります。誕生の時、空から二流の白幡が舞い降りて屋敷内の椋(むく)の木の梢にかかり7日の後に飛び去ったと伝わります。二幡の椋誕生椋と呼ばれます。

保延7年(1141)、9歳の時、漆間家は突然、明石源内武者・定明の夜襲を受け父を失いますが、仇として定明を追う事を戒めたうえに「仏道を歩み安らぎの世を求めよ」との父の遺言にしたがって仇討ちを断念。
母の弟・観覚得業上人に引き取られ、15歳の時に比叡山の皇円について得度。比叡山黒谷の叡空に師事し「法然房源空」と名乗ります。18歳の頃には多くの経典を読破し、優秀な学僧として将来を嘱望されます。

承安5年(1175)、43歳の時、善導の「観無量寿経疏(観経疏)」によって専修念仏に進み、比叡山を下って東山吉水に住み、念仏の教えを広めました。この年を浄土宗の立教開宗の年としています。文治2年(1186)大原勝林院聖浄二門を論じ(大原問答)、建久9年(1198)「選択本願念仏集(選択集)」を著します。

法然は特に中国の善導の思想を重視しました。それは「極楽浄土への往生を一心に願い、常に念仏をしていれば、必ず阿弥陀仏がその者を救ってくれる」という思想でした。法然の教えは、そのわかりやすさから多くの人々の帰依を受けることになります。しかし、これは既成の仏教教団にとっては非常に危険な思想でもありました。そのため、法然と弟子たちは激しい弾圧を受けます。

元久元年(1204)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起。法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送りましたが、興福寺の奏状により念仏停止の断が下されました。

建永2年(承元元年・1207)、法然は還俗され、藤井元彦の名前で土佐国(讃岐国)流罪となりました。この「建永の法難」では、ふたりの弟子が死罪になり、法然と数名の弟子が各地に流罪になりました。しかしこのことが結果的に浄土系仏教を全国に広めることになるのです。

4年後の建暦元年(1211)、赦免になり帰京。翌年1月25日死去。享年80歳。1月23日に源智の願いに応じて遺言書「一枚起請文」を記しています。

法然の門下に、證空・源智・弁長・幸西・親鸞・長西らがいます。俗人の帰依者、庇護者として、九条(藤原)兼実、熊谷直実、宇都宮頼綱らが著名。

誕生寺
◇岡山県久米郡久米南町誕生寺里方八〇八
◇JR津山線「誕生寺駅」から徒歩10分
◇公式サイト:https://www.tanjoji.or.jp

◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇

誕生寺の公式サイトには、

正式には「法然上人御両親御追恩二十五菩薩天童迎接練供養会式大法要」と称し、古く室町時代より始まり、現在、岡山県の無形文化財に指定されております。法然上人の御両親を御供養させていただく浄土宗唯一の大法要であり、日本三大練供養の1つに数えられています。
誕生寺本堂を極楽浄土にたとえ、山門手前300メートルほどに位置する六地蔵の祀られている娑婆堂を現世にたとえ、浄土門主御代理導師のもと二十五菩薩の来迎によって上人の御両親をお浄土へお迎えするという荘厳にして厳粛な儀式です。
毎年上人の、父君(時国公)・母君(秦氏君)を御輪番で御供養しております。
また、当日は、浄土宗門徒はもちろん「病気平癒」「無苦往生」を願う人々で全国各地より多くの参拝者で賑わいます。

と、あります。
4月に入り、過ごしやすい季節になりました。花見に興じて夜風にあたりお風邪などお召しにならないようお体ご自愛専一の程
筆者敬白

この記事をシェアする
   

関連記事

人気のタグ

  • その他人気タグ: