■3月27~28日 東京品川、海雲寺「千躰荒神春季大祭」です。■

江戸三十三箇所観音札所番外、曹洞宗「海雲寺(かいうんじ)」は、建長3年(1251)「不山東用」という僧が開基したと伝わります。本尊に「十一面観世音菩薩」を祀ります。

海雲寺は、東京都品川区南品川、京浜急行「青物横丁駅」のすぐそばにあります。北には、「品川(しながわ)」の地名の由来となった空海開基の真言宗「品川寺(ほんせんじ)」、南には「岩倉具視(いわくらともみ)」など幕末明治の偉人たちが眠る「海晏寺(かいあんじ)」があります。
もともと海雲寺は、臨済宗の塔頭(たっちゅう)として海晏寺の境内にあり、「庵瑞林(あんずいりん)」と称していました。慶長元年(1596)海晏寺五世「分外祖耕」が開山して寺となし、曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)「海雲寺」と号しました。
本尊の「十一面観世音菩薩」は、品川沖でかかった「鮫」の腹から出てきた観音像だと伝わります。これが付近一帯の「鮫洲(さめず)」という地名の由来ともなっています。
◆「千躰荒神」の由来

海雲寺本堂の横には「千躰荒神堂(せんたいこうじんどう)」があります。ここに祀られている「千躰荒神像」は、江戸の昔から「竈(かまど)の神様」「台所の守護神」として人びとに信仰されています。「荒神さま」は台所でいちばん大切な「火と水」を守るありがたい神さまです。
海雲寺の千躰荒神像は、もともと肥前国(佐賀県)佐賀藩の領主「鍋島家」の江戸下屋敷(高輪の二本榎)に祀られていました。さらに遡ると、この千躰荒神像は、肥後国天草郡の荒神の原という場所にあり、小さな祠に祀られ、「二荒神」と呼ばれていました。
寛永14年(1637)、「天草・島原の乱」が勃発しました。佐賀藩初代藩主の「鍋島勝茂(なべしまかつしげ)」と五男「鍋島直澄(なべしまなおずみ)」は、討伐のため幕府軍として派遣されることになり、江戸上屋敷を出発、一路、島原の「原城(はらじょう、はるのじょう)」を目指しました。
天草に到着した際、直澄は荒神の原の「二荒神」の社に必勝を祈願しました。すると、出陣するたびに直澄の先頭に「千余の神兵」が現れ、荒神王とはこのことかと思われる凄まじさで助太刀し、直澄は武勲をあげることができたそうです。この逸話は、小日向水道端の本法寺内の廓然寺住職で茶人の「十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん)」が書いた見聞記『遊歴雑記(ゆうれきざつき)』にも登場します。
千躰荒神は霊験あらたかとして鍋島家の江戸下屋敷に遷座されたのち、明和7年(1770)海雲寺に勧請されました。
◆千躰荒神大祭

「千躰荒神大祭」は、江戸時代から続く海雲寺の春と秋の例大祭のことで、毎年3月と11月の27、28両日、品川千躰三宝荒神王がご開帳となります。
「荒神さま」は、竈の神、火の神、水の神として知られ、「火伏せ」信仰の寺として、多くの人が「護符」と「荒神松(こうじんまつ)」を求めて参詣します。真言は「おん けんばや けんばや そわか おん あら はしゃのう あきに びぎゃら うん そわか」。

「千躰荒神大祭」では、家内安全、火災消除を祈願して大護摩修行が勤行され、「三宝荒神」を祀れば心願成就、開運出世、諸災消除、「竃の神さま」のご利益により衣食住に不自由しないとされています。
境内や門前の「旧東海道」には、縁起物のお釜のかたちをした名物「釜おこし」や、「荒神松」「くず餅」などが売られるほか、たくさんの露店が立ちならび参拝者で賑わいます。
海雲寺
◇東京都品川区南品川3-5-21
◇京浜急行線「青物横丁駅」徒歩2分
◇りんかい線「品川シーサイド駅」徒歩10分
◇公式サイト:https://www.skoujin.com
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

東京「品川(しながわ)」といっても、品川という川があるわけではありません。もともと、「目黒川」の下流から河口付近一帯の地域を品川と言いました。品川の名の由来は、目黒川の古名とする説と、「上無川」(神奈川の語源)に対して、「下無川(しもなしかわ)」が略されて「品川」になったとする説。「高輪」に対して「品ヶ輪」とした説などがあります。
目黒川は北品川と南品川のあいだを流れ、現在は天王洲アイルの南側で東京湾に注いでいます。旧東海道から沖合いのほとんどが近代以降の埋め立て地となっています。
江戸時代には、東海道、江戸口の一番目の宿場町「品川宿」として栄えました。江戸の港町としても栄え、上方へ向かう廻船が「品川湊」から出航しました。また、日本初の鉄道が「品川-横浜(現在の桜木町駅)間」に敷設されたのは、明治4年(1872)6月のことで、これは「新橋-横浜間」に先立つ仮開業です。現在では東海道新幹線の停車駅になっています。
品川宿では千躰荒神祭の他に、宿場祭り、虚空蔵尊祭、天王祭などが有名で、それぞれ大いに賑わいます。







