■2月25日 京都、北野天満宮「梅花祭(ばいかさい)」です。■

「北野天満宮(きたのてんまんぐう)」は、全国約12,000社の「菅原道真(すがわらみちざね)」を祀る「天満宮」「天神社」の総本社です。古来「北野の天神さま」と呼ばれて親しまれ、入試合格・学業成就・文化芸能・災難厄除祈願のお社として広く信仰されています。

御祭神に、
中殿に主神「菅原道真朝臣(すがわらのみちざねあそん)」
東間(ひがしのま)に「中将殿(ちゅうじょうどの)」(道真の長子「菅原高視(すがわらのたかみ)」)
西間(にしのま)「吉祥女(きちじょうにょ)」(道真正室「島田宣来子(しまだののぶきこ)」)
を祀ります。
平安時代中期、多治比文子(たじひのあやこ)〔※〕らによって北野の「右近馬場(うこんのばば)」〔※〕に道真の御霊を祀ったのが北野天満宮の始まりとされています。また、近江国の「比良宮」の禰宜(ねぎ)「神良種(みわのよしたね)」の息子「太郎丸」に道真の託宣が下り、一晩に千本の松を生やすので、そこに祀られたい旨を告げたところ、右近馬場に千本の松が生え、良種が「朝日寺(あさひでら:現「東向観音寺」)」の「最鎮(さいちん」と協力して社殿を設けたのが始まりという伝説もあります。

いずれにしても、北野の地は、平安京の「内裏大極殿(だいりだいごくでん)から見て「乾(いぬい:北西)」の方角にあたる「天門(てんもん)」に位置し、以前から農耕と深く関係する「祈雨(きう)の神」としての地主神「天神(雷神)」が祀られていたところに、道真の怨霊「火雷天神(からいてんじん)」が結び付き、災厄除けの守護神が祀られるようになったのだと考えられています。
道真は、高い身分の家柄に生まれたわけではありませんでしたが、「和魂漢才(わこんかんさい)」〔※〕の精神をもって学問に勤しみ、幼少の頃より文才をあらわし、朝廷の官吏として活躍しました。類まれな才能と人柄により、「宇多天皇(うだてんのう)」「醍醐天皇(だいごてんのう)」に重用され、右大臣の位にまでのぼりつめました。ところが、天皇を廃立して娘婿の「斉世親王(ときよしんのう)」を皇位に就けようと謀ったとされ、昌泰4年(901)「太宰府(だざいふ)」に左遷され、長男「高視」をはじめ、子ども4人が流刑に処されました。これを「昌泰の変(しょうたいのへん)」といいます。それからわずか2年ののち、道真は、衣食住もままならず、太宰府にて非業の死を遂げました。

時を経て、「藤原氏」による大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)「一条天皇(いちじょうてんのう」の令により初めて「勅祭(ちょくさい)」が執り行なわれ、「北野の社」に「北野天満大自在天神(きたのてんまだいじざいてんじん)」の神号が贈られました。かつて下臣だった者を祀る社に「勅使(ちょくし)」を派遣するのは前代未聞のことでした。道真は「天神さま」として祀られ、寛弘元年(1004)の一条天皇の行幸をはじめ、代々皇室の崇敬を受けました。創建当時、怨霊神として祀られていた道真は、善神「天神さま」であり「皇城鎮護の神」として崇め祀られるようになったのです。
「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」の尊崇はとくに厚く、天正15年(1587)「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」を催し、文禄2年(1593)には「朝鮮出兵」について祈願したといいます。現在の社殿は、慶長12年(1607)「豊臣秀頼(とよとみひでより)」が、本社をはじめ末社に至るまで大規模に造営したもの。「八棟造(やつむねづくり)」の本殿・拝殿(国宝)は「権現造(ごんげんづくり)」の最古のもので、「桃山建築」の代表的な遺構です。

楼門と本殿のあいだに建つ中門は「三光門(さんこうもん)」と呼ばれています。その由来は、日・月・星の彫刻があることから。しかし実際には、星の彫刻はないそうで、「七不思議」のひとつになっています。三光門には「後西天皇(ごさいてんのう)」の宸筆(しんぴつ:直筆)の勅額が掲げられています。また、「北野天神縁起絵巻(きたのてんじんえんぎえまき)」の現存する最古の原本「承久本(じょうきゅうぼん)」(国宝)をはじめ、貴重な神宝、文化財を多数所蔵しています。
江戸時代には、「寺子屋(てらこや)」に学業成就・武芸上達を目指す精神的背景として、道真の「御神影(おみえ)」が飾られました。これが、のちに「学問の神さま」「芸能の神さま」として人びとに広く知られるようになった由縁のひとつです。安永8年(1779)国学者の「塙保己一(はなわほきいち)」が国学・国史に関する一大叢書『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』1000巻の刊行を誓ったことは有名です。
◆梅花祭(ばいかさい)

道真は、延喜3年(903)2月25日薨去しました。北野天満宮の「梅花祭(ばいかさい)」は祥月命日に行なわれる祭典です。およそ900年もつづく祭典で、「貞明皇后(ていめいこうごう)」〔※〕参拝の古例により皇后陛下の御代拝が行なわれます。
古くは御祭神を「宥(なだめる)」と音の通じる「菜種(なたね)」の花を供えて「菜種御供(なたねごく)」と称していました。明治以降、新暦になって菜種のかわりに梅の花を用いたことから、次第に「梅花御供(ばいかのごく)」と呼ばれるようになりました。

「大飯(おおばん)、小飯(こばん)」と称すこの御供は、4斗の米を蒸し大小2個の台に盛ったもので、古くより「西ノ京(にしのきょう)」(奈良県奈良市の西部に位置する地域)に住む宮の「神人(じにん、じんにん)」の末裔らにより、前日に「参籠潔斎(さんろうけっさい)」し調整されます。
男女の厄年に因み、白梅の小枝を挿した「紙立(こうだて)」〔※〕を42組、紅梅を挿した紙立を33組、これらを2台にわけて御神前に供えます。「紙立」に用いた玄米は「厄除玄米(やくよけげんまい)」として授与されます。

道真の詠んだ
東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ
(春になって東の風が吹いたならば、その香りを〔京から大宰府の私のもとまで〕送っておくれ、梅の花よ。あるじ〔私〕がいないからといって〔咲くべき〕春を忘れてはならないぞ)
この歌が祭りの由来とされています。
道真が無実の罪を着せられて太宰府へ左遷される前に、大事にしていた梅の木を前にして語りかけるように詠んだ歌です。その梅が京から大宰府に飛んでゆき、そこで生え匂ったという伝説があり、北野天満宮の本殿前の梅の木と太宰府天満宮にある梅の木は「飛梅(とびうめ)」と呼ばれています。
北野天満宮には、菅公ゆかりの梅50種約1,500本があり、花の時期には約2万坪の境内一円で紅白の梅が咲き競います。早咲きの梅は例年12月中旬頃からつぼみがふくらみ始め、正月明けから開花、3月末頃まで長いあいだ花と香りを楽しむことができます。
※多治比文子(たじひのあやこ):平安時代中期の巫女(みこ)。道真の乳母(うば)をつとめていたとも伝わる。天慶5年(942)北野の「右近馬場」に社殿をかまえて菅原道真の霊を祀れとの神託をうける。文子は貧しかったため、はじめは西京(にしのきょう)の自宅近くに小祠をつくったが、天暦元年北野「朝日寺」の僧「最鎮」らの尽力で神託の地に神殿(現北野天満宮)を造立した。
※右近馬場(うこんのばば):「右近衛府(うこんえふ)」(「左近衛府(さこんえふ)」とともに、武器を携帯して宮中の警護、行幸の供奉などを司った役所)に属した馬場。毎年5月、ここで衛府や馬寮(めりょう、うまのつかさ)などから選抜された武官らによる「競馬(くらべうま)」が宮中行事として行なわれていた。日本初の競馬場とされている。
※和魂漢才(わこんかんさい):「和魂」とは、わが国固有の精神のことで、「漢才」とは漢字によって得た知識や才能のこと。日本固有の精神と中国渡来の学問。和魂漢才は、日本固有の精神を失わないで、中国の学問を教養として学び、消化・活用すべきの意。

※貞明皇后(ていめいこうごう):明治17年(1884)-昭和26年(1951)。第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:明治45年/大正元年(1912)-大正15年/昭和元年(1926))。諱(いみな)は節子(さだこ)。お印は藤。旧名は九条節子(くじょうさだこ)。昭和天皇の母。元華族。公爵・九条道孝令嬢。
※紙立(こうだて):仙花紙(せんかし、せんかがみ)を筒状にし、底に小さなかわらけを敷いて、中に玄米を入れ梅の小枝を挿し立てた特殊神饌(しんせん)のこと。「香立」とも書く。仙花紙(泉貨紙)とは、楮(こうぞ)で荒くすいた厚手の和紙のこと。
北野天満宮
◇京都府京都市上京区馬喰町
◇市バス「北野天満宮前」下車すぐ
◇嵐電「北野白梅町」駅、徒歩約7分
◇公式サイト:https://kitanotenmangu.or.jp







