■1月3日 福岡、筥崎宮(はこざきぐう)「玉せせり」です。■

福岡市東区箱崎(はこざき)に鎮座する筑後国一宮「筥崎宮(はこざきぐう)」は、「応神天皇(おうじんてんのう=八幡大神)」を主祭神とし、「神功皇后(じんぐうこうごう=応神天皇の母)」「玉依姫命(たまよりひめのみこと=海の神、神武天皇の母)」を配祀する式内社(名神大社)で、「筥崎八幡宮」とも呼ばれます。

宇佐神宮(うさじんぐう)、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、あるいは鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)とともに「日本三大八幡宮」のひとつに数えられます。筑前国には一宮が2社あり、もうひとつが福岡市博多区住吉の「住吉神社(すみよしじんじゃ)」です。

筥崎宮の創建の時期については諸説ありますが、延喜21年(921)醍醐天皇(だいごてんのう)が神勅(しんちょく)により「敵国降伏(てきこくこうふく)」の宸筆(しんぴつ)を下賜され、筑前国穂波郡(現・飯塚市周辺)の「大分宮(だいぶぐう)」を玄界灘(げんかいなだ)に面した土地に移し、延長元年(923)現在の地に遷座したと伝わります。
かつては、筥崎宮のほど近く、博多湾に沿って白砂青松が2kmにわたって広がり、この一帯の松林は「千代松原(ちよのまつばら)」「十里松(じゅうりまつ)」などと呼ばれ、古くより神木と伝えられてきました。「はこざき(筥崎、箱崎)」という社名・地名は、応神天皇誕生のとき胞衣(えな)を箱に入れてこの地に埋め「しるしの松」を植えたという伝説に由来するといわれます。

「敵国降伏」の宸筆は、醍醐天皇以降の天皇も納めたとされ、筥崎宮は37葉の宸筆を第一の神宝(じんぽう、かむだから)としています。「楼門(ろうもん)」に掲げられた「敵国降伏」の扁額(へんがく)は、文永11年(西暦1274)「蒙古襲来(もうこしゅうらい)」により炎上した社殿の再興にあたり「亀山上皇(かめやまじょうこう)」が納めた宸筆を模写拡大したものです。
「敵国降伏」とは、「武力で相手を降伏させる(覇道)ではなく、徳の力をもって導き、相手が自ずから靡(なび)き降伏するという、王道である我が国のあり方(真の勝利)」を説いています。
蒙古襲来の折り「神風(かみかぜ)」が吹いて未曾有の国難を乗り切ったことから「厄除・勝運」の神としても有名です。後世、足利尊氏(あしかわたかうじ)、大内義隆(おおうちよしたか)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)など、名だたる武将が参詣し、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎました。
蒙古襲来時をはじめ幾度も社殿を焼失しましたが、そのたびに再建され、現在の拝殿・本殿は大内義隆が、楼門は小早川隆景が建立したもので、国の重要文化財に指定されています。
◆「玉取祭(玉せせり)」
筥崎宮の「玉取祭(たまとりさい)」は俗に「玉せせり」といい、全国に知られる奇祭です。起源は定かではありませんが、盛大かつ厳重に行なわれる古くからのお祭りです。
午後1時、「玉洗い式」で洗い浄められた「陰陽の2つの玉」は、末社「玉取恵比須神社」に運ばれます。祭典ののち、陽玉は「競り子」たちに手渡され、「玉せせり」が始まります。

玉に触れると悪事災難を逃れ幸運を授かるといわれます。「勢い水」を浴びた裸の競り子たちの体から湯気が立ちのぼり、激しい争奪戦を繰り広げながら本宮へ向かいます。楼門下に待つ神職に手渡され、陰陽の2つの玉は再び揃って神前におさまります。
筥崎宮
◇福岡県福岡市東区箱崎1-22-1
◇市営地下鉄「箱崎宮前駅」徒歩3分
◇JR鹿児島本線「箱崎駅」徒歩8分
◇公式サイト:https://www.hakozakigu.or.jp
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

玉せせりは福岡の筥崎宮で1月3日に執り行なわれる神事です。写真からも勇壮さがみなぎる祭りだということが伝わってきます。
箱崎宮は鎌倉中期、蒙古襲来(元寇)の頃、俗に云う神風が吹き未曾有の国難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても知られます。「敵国降伏」の扁額(へんがく)を掲げていることでも有名です。近年の度重なる震災や感染症の蔓延は最大の国難といっていいでしょう。元寇のときのように国内の敵味方団結して取り組んでもらいたいものです。
年始年末は不規則な生活になり易い時期です。体調管理にくれぐれもご注意を。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白







