2025.09.16
9月

令和7年(2025)9月23日「川柳忌」柄井川柳(からいせんりゅう)の命日です。

■9月23日「川柳忌(せんりゅうき)」です。■

川柳の祖「柄井川柳(からいせんりゅう)」は、享保3年(1718)生まれ。江戸時代中期の「前句付け(まえくづけ)」点者(てんじゃ)です。柄井家は代々江戸浅草蔵前の天台宗寺院「龍宝寺(りゅうほうじ)」門前町の名主でした。名は「正通」、通称は「八右衛門」、「無名庵川柳」と号しました。

「前句付け」とは、「七七」の短句に対し、その前に来る「五七五」の長句を付けるという言葉遊びです。例えば、お題の前句「切りたくもあり切りたくもなし」に、付句「盗人を捕らえてみれば我が子なり」を付けます。

「前句付け」は、連歌や俳諧の稽古吟として行なわれていましたが、「五七五」の付句を懸賞付きで募集したことから江戸で大流行しました。

「川柳(せんりゅう)」「雑俳(ざっぱい)」(俳諧が通俗化して言葉遊びとなったものの総称)のひとつで、「前句付け」の付句が独立した17字の短詩です。季語や切れ字などの制約はなく、口語を用い、人生の機微や世相・風俗をこっけいに、また風刺的に描写するのが特色です。

「川柳発祥の地」の碑。平成19年(2007)川柳発祥250年を記念して、東京都台東区蔵前4丁目37(三筋二丁目交差点の南東角)に建立された。

連歌・俳諧・川柳などで、作品の優劣を判じて評点を加える人のことを「点者(てんじゃ)」または「判者(はんじゃ)」といいます。龍宝寺の門前で名主差配をしていた「柄井川柳」が、「前句付け」の点者として有名になり、明治になってから俳号の「川柳」がそのまま文芸の名になりました。現在、川柳の名は16代目・尾藤川柳が受け継いでいます。

初代川柳は都会的な句を採ることで人気を得て、のちに「川柳風狂句(せんりゅうふうきょうく)」の祖として仰がれるようになりました。

あくまで点者であり、自身の作品は持たず、辞世の句とされる「木枯しの後で芽をふけ川柳」の出典も不確かです。わずか発句3点のみが彼の作品として伝わり、そのうちの一句「世におしむ雲かくれにし七日月」は、友人の子が亡くなった際の追悼句とされています。成長を楽しみにしていた子どもを惜しんで悲しむ心情を、これから満ちていこうとする七日目の月を雲が隠してしまう情景に喩えています。

寛政2年(1790)没。73歳。平成元年(1989)が200回忌でした。初代柄井川柳の墓は「龍宝寺」にあります。「川柳寺」とも呼ばれ、毎年「川柳忌」には法要と献句、句会などが行なわれます。

天台宗龍宝寺(通称「川柳寺」)
◇東京都台東区蔵前4丁目36番7号
◇都営地下鉄浅草線「蔵前駅」徒歩5分
◇都営地下鉄大江戸線「蔵前駅」徒歩4分
◆金剛山薬王院 龍寳寺(天台宗東京地区):http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/ryuhoji/

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