2024.11.07
11月

令和6年(2024)11月15~18日 千葉市川、中山法華経寺「御会式(おえしき)」です。

■11月15~18日 千葉市川、中山法華経寺「御会式(おえしき)」です。■

日蓮宗大本山「法華経寺(ほけきょうじ)」は、鎌倉時代の高僧「日蓮聖人(にちれんしょうにん)」が最初に開いた寺で、日蓮宗五大本山のひとつです。

日蓮の四つの大きな法難のひとつ「松葉ヶ谷(まつばがやつ)の焼打の難」の際、大信者である若宮の領主・富木常忍(ときじょうにん、日常聖人)と中山の領主・太田乗明(おおたじょうみょう)が、この地に日蓮を呼び「百日百座の説法御弘通」をお願いしました。聖人は自ら「釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)」を安置し、開堂入佛の式を挙げ、法華経寺のはじまりとなりました。

弘安5年(1282)の日蓮入滅のあと、常忍は自邸を寺として「法華寺」と称し、初代貫首となりました。第2代貫首の日高(にちたか)は、太田乗明の館跡に「本妙寺」を創建し、長らく両寺一主制をとっていましたが、戦国時代に一寺となって「法華経寺」と称するようになりました。日蓮自筆の『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』『観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)』(ともに国宝)を所蔵します。

◆中山の鬼子母神

文永元年(1264)日蓮聖人は東条の郷・小松原(こまつばら、現千葉県鴨川市)の地において法難に遭い、眉間に疵を負った危急に「鬼子母神(きしぼじん)」が現れ、その救護によって一命が救われました。中山に避難の折、疵の養生のかたわら鬼子母神霊験に深く感じ、その尊像を自ら彫刻開眼。以来、「中山の鬼子母神」は、天下泰平・五穀豊穣・万民快楽・子育守護等の祈願成就の御尊体として広く信仰を集めるに至っています。

◆日蓮宗大荒行堂

法華経寺は日蓮宗の大荒行「日蓮宗大荒行堂」が開設される寺のひとつです。毎年11月1日から翌年2月10日までの100日間、全国から100名を超える僧侶が修行に挑戦します。午前2時に起床、寒水に身を清める水行を1日7回行ない、お堂の中でひたすらお経の読誦と写経を続けます。麻の清浄衣(死に装束)を着用し、足袋をはくことも許されず、常に素足で修行します。食事は朝夕2度の白がゆ。家族や友人との連絡も断ちます。この修行を終えた僧侶だけが、日蓮宗の祈祷を行なうことができるのです。

◆御会式(おえしき)

日蓮死去の際、大地が震動し桜の花が咲いたと伝わります。御会式の際には、仏前に桜の造花を供えます。御会式期間中、境内では「骨董市」も開かれ、掘り出し物を求める人々で賑わいます。

法華経寺
◇千葉県市川市中山2-10-1
◇JR「下総中山駅」徒歩約10分
◇京成線「京成中山駅」徒歩約5分
◇公式サイト:https://hokekyoji2101.wixsite.com/nakayama

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

日蓮聖人は一生のうち生命にかかわる法難を4度も受けました。それを四大法難といいます。

◇松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちされた松葉ヶ谷法難。
◇伊豆伊東の俎岩に置き去りされた伊豆法難。
◇四十三歳のときに房州小松原で地頭東条影信の一軍に襲撃された小松原法難。
◇五十歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されようとした事件。このとき鎌倉一帯には不思議な現象が起り、処刑は中止されたことは有名です。これを龍口法難といいます。同じ年、佐渡に流されました。

調べているうち日蓮聖人の法難にたどり着きました。大病に投獄ぐらいでへこたれていられませんね。
筆者敬白

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