■10月13日「日蓮聖人忌」です。■
「日蓮(にちれん)」聖人は鎌倉時代の仏教の僧で、法華経の宗祖。貞応元年(1222)2月16日、安房国長狭郡(安房郡天津小湊町)に生まれ、幼名「善日麿」と伝わります。
天福元年(1233)千葉鴨川の清澄寺(せいちょうじ)の道善房(どうぜんぼう)を師とし入門。暦仁元年(1238)に出家し、是生房蓮長の名を与えられ、仁治元年(1240)比叡山へ遊学。高野山へも勉学に努め、仏経典を研鑽した結果「法華経」こそ釈迦の本懐であるという結論に至りました。
建長5年(1253)清澄寺に帰り、4月28日朝、昇る太陽に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて立宗宣言。持仏堂にて仏教教義を広めました。建長6年(1254)鎌倉に出て弘教(ぐきょう=弘めること)を開始。この頃「日蓮」と名乗ります。
文応元年(1260)『立証安国論(りっしょうあんこくろん)』を執筆。これには法華経を信じなければ自界叛逆難(じかいほんぎゃく:国内の争い)、他国侵逼難(たこくしんぴつ:他国が攻め入り、侵略しようと襲ってくる)などの災いが起こると説き、これを時の幕府最高実力者・北条時頼(ほうじょうときより)に送ります。他の信仰を批判していた日蓮は、他宗の僧らにより襲撃され、幕府により濡れ衣を着せられて流罪にされたりしました。
文永5年(1268)蒙古から国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となります。文永8年、幕府や諸宗を批判したと捕らえられましたが、龍の口刑場にて処刑中に刀が折れるという怪異が起こり、処刑は中止されました。その後、佐渡へ流刑にされます。
佐渡へ流罪中に『開目抄(かいもくしょう)』『観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)』などを著述し、末法における「法華曼荼羅(ほっけまんだら)」を完成させました。日蓮宗では「大曼荼羅(だいまんだら)」あるいは「大曼荼羅御本尊」といいます。
文永11年(1274)春、御赦免となった日蓮は幕府に3度目の諌暁(かんぎょう:いさめ、さとすこと)を試みましたが、幕府は一向に聞き入れませんでした。その後、日興上人の弟子で身延の波木井実長(はきりさねなが、はきい、はぎり:南部実長のこと)の領地に入山して、身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)を建立しました。この年に蒙古が襲来。
弘安2年(1279)10月「本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊(だいごほんぞん)」図を顕しました。
弘安5年(1282)10月、弟子の中から後継者を定めました。後継者6人は六老僧と呼ばれます。この年、病気療養のため常陸へ湯治に向かう途中、武蔵国池上の郷主・池上宗仲邸にて亡くなりました。
没後、「日蓮大菩薩」(後光厳天皇・1358)の位を授けられ、「立正大師」(大正天皇・1922)の諡号が贈られます。
この日、全国各地でお会式(おえしき=御会式)と呼ばれる法要が営まれます