■10月12日「芭蕉忌」松尾芭蕉の命日です。■
「松尾芭蕉(まつおばしょう)」は、江戸時代前期の俳諧師で、俳諧を革新し蕉風(しょうふう)〔※〕を樹立。俳諧に偉大な足跡を残し、明治時代に成立した俳句の源流を作りました。
古池や蛙飛込む水のをと
閑さや岩にしみ入る蝉の声
五月雨をあつめて早し最上川
夏草や兵共(つはものども)が夢の跡
などがとても有名です。
※蕉風、正風(しょうふう):松尾芭蕉とその門弟の築いた俳風。それまでの俳諧は、洒落やおかしみ、あるいは、奇抜さを主とした知的な遊戯だったが、芭蕉は、さび・しおり・細み・軽みを尊び幽玄閑寂の境地を求め、遊戯だった俳諧を文芸芸術へと発展させた。
伊賀国の松尾与左衛門と妻・梅の次男として誕生。農家とはいえ松尾の苗字を持つ家柄。若くして、伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠に仕え、京に出て北村季吟(きたむらきぎん)に師事して俳諧の道に入りました。
寛文12年(1672)初の句集『貝おほひ』を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納。3年後、江戸に移って宗匠(そうしょう:和歌・連歌・俳諧・茶道などの先生)となります。
延宝8年(1680)深川に草庵を結び、門人の李下(りか)から贈られた芭蕉の木を一株植えると大いに茂ったのを見て「芭蕉庵」と名付けます。ところが、天和2年(1683)、「天和の大火(てんなのたいか)」により芭蕉庵は焼失してしまいました。
そこで、門人の甲斐国谷村藩の国家老・高山傳右衛門(高山繁文、通称「傳右衛門」)に招かれて移り住み、しばしば旅に出るように。そして『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』などの紀行文を残しました。
元禄2年(1689)弟子の河合曾良(かわいそら)を伴い、江戸を発って東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで『おくのほそ道』の旅に出ます。2年後、江戸に戻りました。
敬慕した西行(さいぎょう)、宗祇(そうぎ)、李白(りはく)、杜甫(とほ)のように、芭蕉もまた旅に生きました。その旅の途中、大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残し、客死します。これが辞世句に。享年51歳。「秋深き隣は何をする人ぞ」は、死の床に臥す直前に書いた句です。
遺言「木曽殿の隣に」により、大津膳所の「義仲寺(ぎちゅうじ)」にある木曽義仲(きそよしなか)の墓の隣に葬られました。
芭蕉が好んで詠んだ句材「時雨」は、旧暦10月の異称です。忌日10月12日は、俳号に因んで「桃青忌」、または「時雨忌」「翁忌」などと呼ばれます。
義仲寺
◇滋賀県大津市馬場1-5-12
◇JR琵琶湖線「膳所駅」徒歩10分
◇京阪電鉄/石山坂本線「京阪膳所駅」徒歩10分
◆「義仲寺」(滋賀・びわ湖観光情報):https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/410/
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
「秋深き隣は何をする人ぞ」は、死の床に臥す直前に書いた句とありました。筆者も大病して病床に就いたことがあります。静けさのなか隣人の気配に耳をすます感覚は、共通するものがあります。
俳人の多くが旅先で名句を詠みます。李白・杜甫など生まれた国や時代は違えど、頷ける漢詩に出会うと、悠久の時を共有したような感覚になります。
季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白