■4月14日 當麻寺(たいまでら)「練供養(ねりくよう)」です。■
「當麻寺(たいまでら、常用漢字体「当麻寺」)」は、奈良県葛城市にある飛鳥時代創建の寺院で、寺号は禅林寺、山号は二上山。創建時の本尊は「弥勒仏」、現在の本尊は「當麻曼陀羅(たいままんだら)」。
西方極楽浄土の様子を表わした當麻曼陀羅への信仰と、曼荼羅にまつわる「中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説」で知られる古刹で、宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっています。
新西国三十三箇所11番、関西花の寺二十五霊場21番(西南院)、仏塔古寺十八尊第8番(西南院)、大和十三仏霊場6番(中之坊)、大和七福八宝めぐり(中之坊)、法然上人二十五霊跡第9番(奥院)。
開基は、聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされますが、草創については明らかではありません。毎年4月14日に行われる「練供養会式(ねりくようえしき)」は、當麻曼荼羅と中将姫に関わる行事です。
日本で初めて極楽浄土の思想を説き『往生要集(おうじょうようしゅう)』を書いた源信(げんしん:恵心僧都、横川僧都)は、天台宗僧侶で、大和国葛城郡當麻郷の出身と伝わります。阿弥陀如来を念じ、生きながら接したいと願い、横川の華台院で阿弥陀仏迎接会を始めましたが、これが「二十五菩薩練供養」〔※〕の始まりと言われています。
當麻寺の練供養(ねりくよう)は、源信・寛印によって寛弘2年(1005)に始められました。中将姫が當麻寺で現身のまま往生したという伝承を再現して演じるのがこの練供養です。
本堂(曼荼羅堂)から娑婆堂に架けられた100m程の来迎橋を、僧が娑婆堂に赴き、中将姫の像に勤行。そのあと、面を被って装束に身をかためた二十五菩薩が娑婆堂に赴き、観音菩薩(すくい仏)、勢至菩薩(おがみ仏)、普賢菩薩と続きます。帰りは観音菩薩を先頭に、蓮座に中将姫像を載せ、練りながら入堂します。
昭和51年(1976)「当麻寺二十五菩薩来迎会」として記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選ばれました。現在各地で行われているほとんどの練供養は、この當麻寺の練供養に根源を求めることができます。
※二十五菩薩(にじゅうごぼさつ):阿弥陀如来とともに来迎する「二十五菩薩」とは、観世音、勢至、薬王、薬上、普賢、法自在王、獅子吼、陀羅尼、虚空蔵、徳蔵、宝蔵、金光蔵、金剛蔵、光明王、山海慧、華厳王、衆宝王、月光王、日照王、三昧王、定自在王、大自在王、白象王、大威徳王、無辺身の各菩薩です。
◆中将姫伝説
中将姫は、奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。しかし、継母から嫌われ、ひばり山に捨てられてしまいました。その後、父と再会し、いちどは都に戻りましたが、姫の願いにより當麻寺に入りました。称讃浄土経の一千巻の写経を達成し、17歳で中将法如として仏門へ。
曼荼羅(諸仏の悟りの境地を描いた絵図)を織ることを決意し、百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸に浸すと糸は五色に染まりました。そしてその蓮糸を、一夜にして一丈五尺(約4m四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げました。
姫が29歳の春、雲間から一丈の光明とともに、阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎し、姫は西方極楽浄土へ向かったと伝えられています。
當麻寺
◇奈良県葛城市當麻1263中之坊
◇近鉄・南大阪線「当麻寺駅」徒歩約15分
◇公式サイト:https://www.taimadera.org
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
當麻寺といえば「中将姫さまのおはなし」が有名です。義母を恨まずに写経を続けることで、仏心に目覚めるといった物語です。現代社会でも通じるリアリティーがあります。中将姫伝説は、いつの時代でも人間の浅はかな行動に警鐘を鳴らしているのでしょう。
ともあれ、読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白