2024.03.12
3月

令和6年(2024)3月16~17日 近江八幡「左義長まつり」です。

■3月16~17日 近江八幡「左義長まつり」です。■

「日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)」は、八幡山の南麓に建つ旧八幡町の総社で、近江商人の信仰を集めていました。成務天皇元年(131)第13代・成務天皇が高穴穂宮(たかあなほのみや)に即位の折、武内宿禰(たけのうちのすくね)に命じてこの地に大嶋大神(地主神)を祀ったのが始まりとされます。

御祭神は、
・譽田別尊(ほむだわけのみこと)=人皇第十五代應神天皇の御神霊
・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)=應神天皇の御母君、攝政の宮として統治された「神功皇后」の御神霊
・比賣神(ひめがみ)=「田心姫命(たごりひめのみこと)」「湍津姫神(たぎつひめのみこと)」「市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)」の三姫神の御神霊。
この三姫神は「玉依姫(たまよりひめ)」とも称します。

天正13年(1585)豊臣秀次(とよとみひでつぐ)公鶴翼山(かくよくざん、八幡山(はちまんやま)とも)に八幡山城を築城。上下の八幡宮を麓の「比牟礼社」に合祀。10年後の文禄4年(1595)、八幡城は廃城となりましたが、城下町は商人の町として発展し近江商人を育て、守護神として崇敬を集めることとなりました。江戸初期に海外貿易で活躍した西村太郎右衛門の寄進「安南渡海船額」(重文)が納められます。

◆近江八幡「左義長まつり」

「近江八幡の左義長」は、日牟礼八幡宮の二大火祭のひとつで、奉納行事として八幡開町以来の城下町66ヶ町の氏子により執り行われます。

もともと安土城下で正月に行われていたもので、城主であった織田信長自らも踊り出たと伝わります。信長亡きあと、八幡城下町を開町した豊臣秀次が安土の民を招き入れて城下に住まわしました。安土から移り住んだ町衆は、秀次への感謝と亡き信長公の遺徳を偲び、土地の氏神様であった日牟禮八幡宮に左義長を奉納することを願い出て今に至ります。

◆「左義長」の由来

平安時代、宮中では正月に「打毬(だきゅう)」という遊びがあり、毬杖(ぎっちょう)・毬打(ぎちょう)と呼ばれる道具を使用していました。打毬は大陸伝来の遊びで、紅白の毬を先がヘラになった毬杖で掬って自分の組の毬門に早く投げ入れた方を勝ちとするポロ競技に似たものです。

この打毬で破損した毬杖を、清涼殿の東庭で青竹を束ね立てたものに結び、さらに扇子や短冊などを吊るして、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼きます。このとき3本の毬杖を結んだことから、書物には「三毬杖(さぎちょう)」「三鞠打」「三木張」「散鬼打」などと記され、しだいに「左義長」と呼ばれるようになったと考えられています。

日牟禮八幡宮
◇滋賀県近江八幡市宮内町257
◇JR・近江鉄道「近江八幡駅」よりバス
◇名神高速「竜王IC」より15km
◇公式サイト:https://himure.jp
◆天下の奇祭「左義長まつり」(近江八幡左義長保存会):https://www.sagicho.net

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

近江八幡左義長まつりは、昭和33年(1958)「滋賀県無形民俗文化財」に指定され、平成4年(1992)には「国選択無形民俗文化財」に選定されました。
左義長は現代では減りつつある火祭りで古くからの原型をとどめている祭礼です。『信長公記』によると、織田信長は「自ら南蛮笠を被り紅絹で顔を包み、錦袍を着け華美な姿で踊った」そうです。その心意気は、現在の各奉納町ごとに誂えた鮮やかな色の半纏(はんてん)着る踊子たちのいでたちに表れているかのようです。
3月に入っても雪がちらつく寒い日があります。油断せずお出かけの際には暖かくなさってください。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

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