2024.02.02
2月

令和6年(2024)2月6日 新宮、神倉神社「御燈祭(おとうまつり)」です。

■2月6日 新宮、神倉神社「御燈祭(おとうまつり)」です。■

「神倉神社(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)」は、熊野三山(速玉・那智・本宮)の一山である「熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)の摂社」で、神倉山(かみくらさん、かんのくらやま、標高120m)に鎮座しています。

祭神に「天照大神(あまてらすおおのかみ)」「高倉下命(たかくらじのみこと)」を祀ります。

源頼朝が寄進したと伝わる急勾配の「鎌倉積み石段」538段を登らなければなりません。また、境内の外縁は断崖絶壁です。山頂には通称「ゴトビキ岩」といわれる数個の巨岩があり、御神体として崇められ、古代より熊野の祭礼場熊野の根本として神聖視されてきました。

熊野路に春の訪れを告げる火祭「御燈祭(おとうまつり)」は、白装束に腰に荒縄を巻いた「上り子(あがりこ)」と呼ばれる祈願者が、燃え盛る松明を手に538段の石段を駆け下り、帯状に連なった松明の火が、まるで炎の滝のように浮かび上がります。

この祭事は、約1400年前から伝わる女人禁制の神事で、熊野に上陸した神武天皇を松明の炎で迎えたという故事に因みます。「山は火の滝、下り竜」ともいわれ、たくさんの観光客で賑わいます。

神倉神社
◇和歌山県新宮市神倉1-13-8
◇JR紀勢本線「新宮駅」から熊野交通バス「裁判所前」。
◇JR紀勢本線「新宮駅」から徒歩15分。
◇公式サイト:https://kumanohayatama.jp/?page_id=18

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

神倉神社には神武天皇が徐福伝説の徐福(じょふく)だったのではないかといった説が残っています。
以下は研究資料を拝借

◇徐福と神武天皇
新宮市には徐福の墓があります。徐福について簡単に説明しますと、中国において紀元前、最初に統一した政権にあの万里の長城を築いた秦の始皇帝はみなさんご存じでしょう。この始皇帝の命により「不老長寿の仙薬」を求めるよう指示されたひとりが徐福でした。

徐福は、中国中を探しましたが見つからず、ついに東の海の彼方、日の出ずる国、蓬莱山(富士山)の島にあると進言し、「童男女三千(書物によっては、五百などとも)と百工、五穀とその技術を持つ人をつけ東方に船出」しました。(仙薬が見つからないと始皇帝の逆鱗に触れ死刑となるため、逃走したのだ!との謂れもある)そして、ついには中国には帰らなかったと、司馬遷の『史記』に記載があります。

これは、日本の弥生時代初期と時期が合い、全国20ヶ所以上に徐福伝承地の跡があります。これらにより、徐福の伝説は事実であったと思われ、弥生時代は徐福によって開かれたという説もあります。

◇徐福=神武天皇説
ここに徐福は神武天皇であったという説が出てくるのです。いわゆる神武天皇東征のことです。

中国の故衛挺生教授(1890~1977)の「徐福の日本建国考」によると、
1. 地理が合う/「平原広沢」。東海各島の中で日本にだけ平原広沢がある。
2. 時代が合う/「三種の神器」。鏡、勾玉、剣は秦代のものである。
3. 水軍の存在、舟師が活動している。
4. 少年少女/神武東征に働いた「童男女」、後の男軍、女軍。
5. 五穀百工/神武の軍は各地に1年以上住んでいる。稲作などを指導した。
6. 政治思想/秦の郡県制度のようなものを神武も作った。
7. 遇民政策/文字や中国語を使わせず、使わなかった。
8. 神話/八神の中の七神が合う。天、地、兵、陰、月、四時主など。
9. 年代/前203年、ヤマト橿原で即位。
10. 考古遺物が合う/秦代の明刀、安陽布などの貨幣、青銅器の出土。

◇彭雙松氏の「徐福研究」によると
1. 「史記」に実在した事実が記されている。
2. 徐福について56の遺跡、32の伝説、46の文献に残っている。
3. 神武東征と徐福東渡には37にわたる共通の事項がある。
4. 子孫が6~700年後、全土を統一している。(引用者注、5世紀、倭国か)
5. 佐賀、金立神社由来記に「本神社は神武朝、振興時に之を創設」とある。
6. 日向、延岡に徐福岩がある。神武の出航した地域である。
7. 福岡県の岡(遠賀)に3年もいた。遠貿川式土器で知られる弥生文化発祥地。
8. 金関丈夫博士による縄文人と弥生人の身長差などの研究では、華北からの渡航、移住を示す。
など、かなり符合する点があり、徐福研究は日中両国で続いています。『徐福集団渡来と古代日本』より

最高の歴史ロマンといえましょう。読んでいるだけでワクワクします。検証できないだけに、ますますイメージが膨らみます。
筆者敬白

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