2023.12.21
12月

令和5年(2023)12月25日「蕪村忌(ぶそんき)」与謝蕪村の忌日です。

■12月25日「蕪村忌」です。■

与謝蕪村(よさぶそん)」は、江戸時代中期の日本の俳人・画家。松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧の巨匠のひとりであり、江戸俳諧中興の祖といわれます。俳号は「蕪村」のほかに「宰鳥」「夜半亭(二世)」、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など。

享保元年(1716)摂津国東成郡毛馬村(大阪市)に生まれ、20歳の頃に江戸に下り、早野巴人(はやのはじん、のちの夜半亭宋阿(やはんていそうあ))に師事し俳諧を学びます。

寛保2年(1742)27歳の時、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおかがんとう)のもとに寄寓(仮住まい)し、松尾芭蕉に憧れその足跡を辿って、僧の姿で東北地方を周遊します。

寛保4年(1744)その手記を雁宕の娘婿の佐藤露鳩(さとうろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』ではじめて「蕪村」を号します。

その後、丹後・讃岐などを歴遊し、42歳頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになり、45歳頃に結婚、一人娘「くの」をもうけます。島原角屋〔※〕で句を教えるなど、以後は京都で生涯を過ごしました。

※島原角屋(しまばらすみや):角屋は今の料亭にあたる揚屋(あげや)という業種の店の建物です。間口が狭く、奥行きのある小規模の建物だったので、1階を台所および居住部分とし、2階を主たる座敷としました。その2階へお客様を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになったそうです。
幕末には久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、豪商からの資金調達のための接待に使用されていました。
昭和27年(1952)、揚屋建築の唯一の遺構として国の重要文化財に指定。所蔵する蕪村「紅白梅図屏風」も昭和58年(1983)に重要文化財に指定されました。

天明3年(1783)12月25日未明、居宅(京都市下京区仏光寺通烏丸西入ル)にて、68歳の生涯を閉じました。辞世句「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区の金福寺です。

洛北の「金福寺(こんぷくじ)」は俳句の聖地といわます。元禄年間に和尚を芭蕉が訪ね親交を深めました。和尚は庵に「芭蕉庵」と名付け、いつまでもその高風を偲んだとか。やがて荒廃した芭蕉庵を蕪村が再興。現在、芭蕉の碑、芭蕉像、蕪村の遺愛品などが残されています。また、舟橋聖一の歴史小説『花の生涯』のヒロイン・村山たか女が波乱の生涯を終えた寺でもあります。

金福寺(こんぷくじ)
◇京都市左京区一乗寺才形町20
◇叡山電車「一乗寺駅」徒歩15分
◆「金福寺」(京都市観光協会):https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=296

国宝「夜色楼台図」(個人蔵)掛幅

◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆

蕪村は芭蕉と並び称される俳人として今では有名ですが、生前はむしろ画家としての仕事のほうが多かったようです。絵を売って、妻と娘の生活を支え、生活も楽なものではありませんでした。
俳人として高く評価されるようになったのは、死後かなり経ってから。正岡子規が『俳人蕪村』(明治30年頃から新聞連載)で、芭蕉にも劣らない俳人として蕪村を”再発見”し、さらに萩原朔太郎が『郷愁の詩人 與謝蕪村』(昭和11年刊)で詩人の立場から蕪村こそが「真の抒情詩の抒情詩人、真の俳句の俳人」であるとあらためて評価しました。
◆正岡子規『俳人蕪村』(青空文庫):https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/card57362.html
◆萩原朔太郎『郷愁の詩人 与謝蕪村』(青空文庫):https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/card47566.html

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