■3月11~12日「近江八幡 左義長祭」です。■
「日牟禮八幡宮:ひむれはちまんぐう」は、八幡山の南麓に建つ旧八幡町の総社で、近江商人の信仰を集めていました。成務天皇元年(131)第13代・成務天皇が高穴穂の宮に即位の折、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神(地主神)を祀ったのが始まりとされます。
御祭神は「譽田別尊:ほむだわけのみこと=人皇第十五代應神天皇の御神霊」、「息長足姫尊:おきながたらしひめのみこと」、「應神天皇の御母君」攝政の宮として統治された「神功皇后」の御神霊、「比賣神:ひめがみ」、「田心姫命:たごりひめのみこと」、「湍津姫神:たぎつひめのみこと」、「市杵嶋姫命:いちきしまひめのみこと」の御神霊。この三姫神は「玉依姫:たまよりびめ」とも称します。
天正18年(1590)豊臣秀次公が法華峰に八幡城を築城。上下の八幡宮を麓の「比牟礼社」に合祀。後八幡城は廃城となりましたが、城下町は商人の町として発展し近江商人を育て、守護神として崇敬を集めることとなりました。江戸初期に海外貿易で活躍した西村太郎右衛門の寄進「安南渡海船額」(重文)が納められます。「近江八幡の左義長」は、日牟礼八幡宮の二大火祭の一つで、奉納行事として八幡開町以来の城下町66ケ町の氏子により執り行われる習わしです。
もともと、安土城下で行われていたもので、城主であった織田信長自らも踊り出たと伝わります。織田信長亡き後、八幡城下に移住してきた人々が4月に行われていた八幡祭に参加を申し入れたが断られたために、これに対して安土で行われていた左義長まつりを始めたことが起源とされているとも。
平安時代、宮中では正月に「打毬:だきゅう」という遊びがありました。毬杖(ぎっちょう)毬打(ぎちょう)と呼ばれる道具を使用しますが、この打毬で破損した毬杖を、清涼殿の東庭で青竹を束ね立てたものに結び、さらに扇子や短冊などを吊るして、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼きます。「打毬」は大陸伝来の遊びで、紅白の毬を先がヘラになった毬杖で掬って自分の組の毬門に早く投げ入れた方を勝ちとするポロ競技に似たものです。
毬杖を3つ結んだことから、書物には「三毬杖」「三鞠打」「三木張」「散鬼打」などと記され、しだいに「左義長」と呼ばれるようになったと考えられます。
近江八幡左義長祭は、昭和33年(1958)「滋賀県無形民俗文化財」に指定され、平成4年(1992)には「国選択無形民俗文化財」に選定されました。
日牟禮八幡宮
◇滋賀県近江八幡市宮内町257
◇近江近鉄「近江八幡駅」よりバス
◇公式サイト:https://himure.jp
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
左義長は現代では減りつつある火祭りで原型をとどめている祭礼です。その昔、織田信長が踊り出たとの逸話があり、安土時代には盛大な祭りだった様子が伺えます。近江八幡左義長は無形文化財になっていて松明に点火のタイミングが見どころです。。
3月に入っても雪がちらつく寒い日があります。油断せずお出かけの際には暖かくなさってください。
読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白