「時間」という言葉は、一般的には、「時の流れのある一瞬の時刻」、あるいは、「ある時刻とある時刻の間の長さ」の意味で使われています。
ただし、「時間とは何か」といざ問われると、このテーマには、心理学・生物学・哲学・自然科学・物理学・宇宙論など、それぞれの分野の切り口があり、また、その時代によっても、多くの定義や考え方があるので、なかなか一概には説明しきれません。
そこで、ここでは、以下の5つの分野に分けて、「時間とは何か」についての代表的な考察を、3回に分けて、なるべく分りやすく整理してみたいと思います。
心と体に流れる時間(体内時計)
年をとると、時間の経つのが速く感じられるのはなぜ?
この理由として、たとえば7歳と70歳を比べた場合に、7歳児の1年は生涯の7分の1もの長さである一方、70歳にとっての1年は生きてきた内のたった70分の1なので、この比率の違いが、心理学的な時間の評価を決めているという説が一般的です。
加えて、子供は、日々新しい出来事を体験するので、多くの記憶がフレッシュな脳に鮮明に残りますが、大人は、過去と同じような体験を繰り返すばかりなので、脳の海馬がいちいち記憶していなく、気が付いたらすぐに1年経ってしまった、という理由も良くあげられます。
体内時計の存在
生物の体内に時計の役割をする機能があって、この時計を体内時計(生物時計)と呼んでいます。たとえば、時計のない遮断された部屋で何日か過ごしても、人間も動物も約24時間の周期で規則正しく寝起きすると言われています。どうしてかというと、どの生物にも種を保存するために、「環境に適応して生存のチャンスを増やす」という本能としての適応能力があるからです。
体内時計の周期はどうしてつくられているのか?
では、体内時計で、機械式時計の振り子やてんぷのような周期を生み出す基準をつくっているものは何でしょうか。答えは、細胞内部において1日24時間周期で蓄積されては分解される、たんぱく質の働きです。細胞内のたんぱく質が、朝活動とともに増えて、夜になると減るという、この約24時間周期で質量が増減する仕組みが、体内時計として24時間をはかっているのです。このメカニズムによって、生物はホルモン分泌リズムを生み出し、朝決まった時間に覚醒して目覚め、夜自然に睡眠をとれるようになるのです。
最近のバクテリアの研究によって、このたんぱく質はリン酸基がくっつくリン酸化と、離れる脱リン酸化を24時間周期で繰り返していることも、わかってきています。
動物の生物学的な時間
体が大きい動物ほど心臓の鼓動は遅く、たとえば、ネズミの心臓は、おおよそ、0.1秒に1回、ヒトは1秒に1回、ゾウは3秒に1回鼓動します。心臓が1回打つ間に消費されるエネルギー量はどの動物でも同じで、心臓が約15億回撃つと寿命になるそうなので、ネズミの寿命は短く、ゾウの寿命は長いということです。
このことによって、体重が重い動物ほど、血液の循環から、消化・排泄、成長、細胞の寿命などの生理的時間もゆっくりになるため、結果として長い寿命を、ゆっくりしたテンポで生活しているということが言えます。
理由はわかりませんが、一説によると、心周期や寿命などの体内の時間は、体重の1/4乗に比例しているそうです。1/4乗というとわかりにくいのですが、体重が16倍(2の4乗倍)になれば時間は2倍、81倍(3の4乗倍)になれば3倍、256倍になれば4倍になるということです。
それぞれの動物がその進化の過程で、同じ1日でも、体重やサイズによって、設計されている一生の時間の長さや、おそらく感じている1日の長さが違うというのは、非常に興味深い話です。
宗教や哲学における時間観の変化
古代からの宗教における時間の概念
また、仏教やヒンドゥー教などのインド哲学や東洋思想でも輪廻転生と言って、死んであの世に還った霊魂が、何度も生まれ変わるという、同じような考え方がありました。
ユダヤ教にも一部円環的な時間観が見られますが、キリスト教では、神の啓示によるイエス・キリストのこの世への到来と死・復活は、不可逆的で反復不可能なものとされています。
ただし、10世紀以前のキリスト教の布教がまだ限定的な時代にあっては、日時計・水時計・燃焼時計など以外に、時間を計る道具も無く、一般の人々にとっての時間の意識はまだまだ薄いものでした。時間とは、季節の変り目や毎年の収穫によって、年単位で繰り返されるもの、という概念でした。
11~12世紀以降に、キリスト教が一般人の生活に影響を及ぼすようになって、繰り返される円環的な時間の観念が否定され、時間とは、終末に向かって進んでいく、神が支配する直線的なもの、という概念に変わって生きます。
道元禅師の時間論
すなわち、道元の「有時(あるとき)」とは、「有(空間・存在)」と「時(時間)」、時間と空間・時間と存在は、常にひとつで、私たちの人生は、常に「今・ここだけ」にあること。静止している松などの植物も人と同じように、時間と空間を構成しているものだ、と考えたのです。
そして、人生とは「今・ここだけ」の瞬間を、修行をしながら仏と一つになって、懸命に生きていくことだ、と説きました。
宗教から離れた「時間意識の革命」
これが、まさに、神が支配していた時間から、神から離れた客観的な時間への「時間意識の革命」で、広場の塔時計によって、時間は神の手から自由都市を牛耳る商人たちの手に渡り、商人達が、その地域の経済・社会・政治を支配する道具へと変わっていったのです。
古代ギリシャの哲学者の考えた時間
古代ギリシャの哲学者プラトンは、惑星の運動が、時計を巻くぜんまいのように、時間を進めていると考えたようですが、弟子のアリストテレスは、惑星の運動とは関係なく、運動の先後における数、すなわち物事が起こる前後の順番によって時間は決まると定義しました。
まだ、紀元前4~5世紀の話です。
その後、多くの哲学者は、時間を空間と共に、人間が存在し何かを認識するための最も基本的な枠組みと捉え、あらゆる事が、過去から現在、未来へと流れていくと考えました。
あるいは、時間は心と無関係に外部で流れているものではなく、過去の記憶と、未来への期待を含みながらも、現在を中心にした心の働きと関係している、と考えた者もいました。
ニュートン以降の哲学者の考えた時間
何人かの哲学者は、それに異論を唱えます。有名なものは、18世紀後半に活躍したイマヌエル・カントで、彼は、時間と空間を、絶対的なものではなく、人間の主観や直感、感性のあり方によって変わるもので、様々な時間や空間で起こる現象を認識し得ると考えたのです。
参考文献
・どうして時間は「流れる」のか二間瀬敏史PHP新書
・Newton別冊「時間とは何か」ニュートンムックニュートンプレス
・図説雑学時間論二間瀬敏史ナツメ社
・ゾウの時間ネズミの時間本川達夫中公新書
・道元禅師の時間論角田泰隆駒沢大学
・1秒って誰が決めるの?安田正美ちくまプリマー新書