■11月28日「親鸞聖人忌」です。■
11月21日から28日は、真宗本廟「報恩講」の、祖親鸞聖人の御祥月命日までの一週間に毎年勤められる法要です。
「報恩講」は親鸞聖人の教えに遇い、自らの依りどころを教えていただいた御恩に報謝し、教えを聞信して、ともに念仏申す身となっていくことを誓う法要とされています。
「報恩講」は親鸞聖人の教えに遇い、自らの依りどころを教えていただいた御恩に報謝し、教えを聞信して、ともに念仏申す身となっていくことを誓う法要とされています。
25日には親鸞聖人のご生涯を著した「御伝鈔(ごでんしょう)」拝読があります。御祥月命日28日の御満座には体を力強く前後左右に動かしながら念仏と和讃がよまれる「坂東曲(ばんどうぶし)」が勤まります。
御伝鈔:鎌倉時代の仏教書。2巻または4巻。覚如(かくにょ)著、永仁3年(1295)成立。親鸞聖人の行実を絵詞(えことば)で記した「親鸞伝絵」から、その文章を抄出したものを指します。
覚如:鎌倉時代末期から南北朝時代の浄土真宗の僧。親鸞の曾孫にあたります。
坂東曲:東本願寺の法要・報恩講での行事。僧侶が上体を揺らして念仏を唱えます。親鸞聖人が越後へ流罪になった際、荒波に揺れる船の中で一心に念仏を唱え、船の中で体が揺れた逸話に由来します。他の浄土真宗宗派では見られない東大寺独特のものです。
承元元年(1207)「専修念仏禁止」の弾圧によって、師・法然は土佐へ、親鸞は越後国府へ流罪となります。親鸞35歳。藤井善信という俗名を名乗り「僧に非ず俗に非ず」という生活を送ります。赦免までの5年、後の2年間の越後で生活ました。
入滅
弘長2年11月28日 、「善法院」にて、行年90(満89歳)をもって入滅する。臨終には、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取ったとされています。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められました。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫い親鸞の入滅でした。
弘長2年11月28日 、「善法院」にて、行年90(満89歳)をもって入滅する。臨終には、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取ったとされています。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められました。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫い親鸞の入滅でした。
荼毘の地は、京都市東山区あたりの御伝鈔に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬りしたてまつる」と記されています。
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
東本願寺報恩講の最終日だ親鸞聖人忌で臨終です。生き方や貫く姿勢には、私たち常人を超えた信念があったのは言うまでもないですが、生き方を貫く姿勢は見習わなけれないけません。
季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白
季節の変わり目です。皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白