■4月1日「親鸞聖人誕生会」です。■
鎌倉時代初期の日本の僧「親鸞:しんらん」は、浄土真宗の開祖で「親鸞聖人:しんらんしょうにん」と尊称されます。
浄土宗の開祖「法然:ほうねん」を師と仰ぎ、生涯に渡り「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、それを高めることに力を注ぎました。
承安3年(1173)4月1日京都生まれ。現在の法界寺(真言宗醍醐派別格本山)、日野誕生院(浄土真宗本願寺派)付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮の大進・日野有範の長男として誕生。母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘・吉光女とされます。幼名は「松若磨」「松若丸」。
出家後「叡山」(比叡山延暦寺)に登り、天台宗の僧として不断念仏の修行を20年に渡り積みますが、自力修行の限界を感じるようになり下山。聖徳太子の建立とされる「六角堂」(京都市中京区)へ百日参籠し、95日目の暁、夢中に聖徳太子が示現され偈句を得ます。
夢告に従い、夜明けに東山吉水の法然の草庵を訪ね、岡崎の地(左京区岡崎東天王町)に草庵を結び、百日に亘り法然の元へ通い聴聞。「専修念仏」の教えに触れ、入門を決意します。「綽空:しゃっくう」の名を与えられ、研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになります。
建永2年(1207)2月、興福寺の訴えにより専修念仏の停止と、4名を死罪、法然、親鸞ら8名が流罪となります(承元の法難)。この時、法然と親鸞は僧籍を剥奪されます。法然は「藤井元彦」の俗名を、親鸞は「藤井善信:ふじいよしざね」を与えられます。法然は、土佐国へ、親鸞は越後国府に配流されました。親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事から、「愚禿釋親鸞:ぐとくしゃくしんらん」と名乗り、非僧非俗の生活を開始。以降も僧を名乗ることはありませんでした。
苦難に満ちた生涯を通して、ひたすら生まれた意義と生きる喜びを尋ねた親鸞は、法然上人に出遇って念仏の教えに帰し、如来の本願に生き、自らの生涯を賭けて、帰すべき生の大地を「浄土真宗」として顕揚されました。
三帰依文(さんきえもん)に「この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」と教えられています。自らの生のもつ真の意義を明らかにできないのが人間…といい、自己の生の真実に目覚めたつことが真の誕生…と説きます。如来の本願に帰して生きる新しい生の誕生を語り伝えています。
この日、真宗の寺院では御誕生会が行なわれます。
◇東本願寺(ひがしほんがんじ)
◇京都市下京区烏丸通七条上る
◇JR「京都駅」徒歩7分
◇公式HP:http://www.higashihonganji.or.jp/
◇法界寺(ほうかいじ)
◇藤原氏一門の貴族・日野家の菩提寺。
※定朝作(仏師)・伝阿弥陀如来像(国宝)
◇名所旧跡めぐりブログ:http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/hokai-ji.htm
◇日野誕生院(ひのたんじょういん)
◇京都府京都市伏見区日野西大道町19
◇JR「六地蔵駅」徒歩25分
◇名所旧跡めぐりブログ:http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/hino-tanjyo-in.htm
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
現代は、死という悲しみや不安を感じながらも、日々の生活に埋没し、現世に「生」を受けた意味さえも問わず「生きる」ことに深い喜びを感じる人は、少ないのかもしれません。
この世に生を受けたということは、何ものにも比べることのできない、比べる必要のない尊いもの。「人として生まれたご恩徳」をすなおに喜びたいものです。
季節の変わり目です。暖かくなったとはいえ、朝夕は冷え込みます。読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白