■1月22日「黙阿弥忌」です。■
「河竹黙阿弥:かわたけもくあみ」は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者です。本名は吉村芳三郎。俳名・其水。別名・古河黙阿弥。
14歳のときに道楽が過ぎて勘当され、狂歌・茶番・俳句などで活躍。天保6年(1835)歌舞伎・狂言作者の五代目鶴屋南北の門下に。記憶力が抜群で「勧進帳」の台詞を暗記して舞台の後見を努め、七代目市川団十郎に認められます。
黙阿弥の歌舞伎の特徴は「黙阿弥調」と称される華麗な台詞にあります。歌舞伎界では「厄払い」と呼ばれ、リズミカルな七五調に掛詞・縁語を駆使し、一人で或いは複数で語ることでオペラの「アリア」や「二重唱」のような効果を上げています。
白浪物(盗賊が主人公となる)を得意としましたが、そこに登場する悪人たちは、むしろ小心で時代や因果に翻弄される弱者です。鶴屋南北と比較されますが、ふてぶてしい悪人が登場する鶴屋南北の歌舞伎との大きな相違点です。
明治以降は、能楽風の新しい舞踊である「松羽目物」の作詞を担当。晩年は自作脚本を全集本「狂言百種」として発売し歌舞伎の普及に努めました。
生涯に発表した作品は三百余。坪内逍遙※は、黙阿弥のことを「江戸演劇の大問屋」「明治の近松」「我国の沙翁(シェークスピア)」などと高く評価しました。江戸・日本橋生まれ。明治26年1月22日没。
※坪内逍遙(つぼうち しょうよう):主に明治時代に活躍した小説家、評論家、翻訳家、劇作家。代表作に「小説神髄」「当世書生気質」およびシェイクスピア全集の翻訳。
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
私達一般的な庶民は、江戸や明治の歌舞伎や狂言をまったく知りません。近年では、昭和生まれの筆者でも「明治は遠くなりにけり」と感じます。
まして江戸時代後期の文化などは、昔という言葉で括れるほどです。日本の誇れる文化に命日に「故人を偲ぶ」という習慣があります。江戸末期から明治初期の狂言など、触れてみることも一興で余裕の一つと言えます。
筆者敬白