■1月16日「真宗本派親鸞聖人忌」です。■
鎌倉時代初期の僧「親鸞:しんらん」は、浄土真宗の開祖で「親鸞聖人:しんらんしょうにん」と尊称されます。
浄土宗の開祖「法然:ほうねん」を師と仰ぎ、生涯「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、高めていく事に力を注ぎました。
承安3年(1173)4月1日京都生まれ。現在の「法界寺」(真言宗醍醐派別格本山)、「日野誕生院」(浄土真宗本願寺派)付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮の大進・日野有範の長男として誕生。
母は清和源氏の八幡太郎義家の孫娘・吉光女とされます。幼名は「松若磨」「松若丸」。
出家後「比叡山延暦寺」に登り、天台宗の僧として20年にわたり修行を積みますが、自力修行の限界を感じるようになり下山。
「聖徳太子」の建立とされる「六角堂」(京都市中京区)へ百日参籠し、95日目の暁、夢中に聖徳太子が示現され偈句を得ます。
夢の告げに従い、夜明け東山吉水の「法然の草庵」を訪ね、岡崎の地(左京区岡崎東天王町)に草庵を結び、百日間にわたって法然の元へ通い聴聞し「専修念仏」の教えに触れ、入門を決意します。
「綽空:しゃっくう」の名を与えられ、親鸞は研鑽を積み次第に法然から高く評価されるようになります。
建永2年(1207)2月、興福寺の訴えにより「専修念仏の停止」と、4名を死罪、法然、親鸞ら8名が流罪となります(承元の法難)。
この時、法然、親鸞は僧籍を剥奪され、法然には「藤井元彦」の俗名を、親鸞は「藤井善信:ふじいよしざね」を与えられます。
法然は、土佐国へ、親鸞は越後国府に流されました。
親鸞は俗名に「善信」を使われた事から「愚禿釋親鸞:ぐとくしゃくしんらん」と名乗り、非僧非俗の生活を開始。以降も僧を名乗ることはありませんでした。
苦難に満ちた生涯を通して、ひたすら生まれた意義と生きる喜びを尋ね当てた親鸞は、法然上人に出遇って念仏の教えに帰し、如来の本願に生き、自らの生涯を賭けて、帰すべき生の大地を「浄土真宗」として顕揚されました。
「三帰依文:さんきえもん」に「この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」と教えています。
自らの生のもつ「真の意義」を明らかにできないのが人間といい、自己の生の真実に目覚め立つことが、真の誕生と説き、如来の本願に帰して生きる「新しい生の誕生」を語り伝えます。
親鸞聖人の入滅は、弘長2年(1262)11月28日(グレゴリオ暦=1263年1月16日)。
宗派によって旧暦の日付のまま新暦の日付で行われる場合と、新暦に換算した1月16日に営まれる場合があります。
浄土真宗本願寺派「西本願寺」では、親鸞聖人の祥月命日を縁に「ご正忌報恩講」(ごしょうきほうおんこう)が営まれます。
期間中、全国から僧侶、門信徒が多数参拝し、聖人のご遺徳を偲ぶとともに浄土真宗の信者としての自覚を新たにします。
浄土真宗本願寺派「西本願寺」
◇京都市下京区堀川通花屋町下ル
◇JR・近鉄「京都駅」バス
◇西本願寺HP:http://www.hongwanji.or.jp/
◆◆◆◆編集後記◆◆◆◆
15日・16日に「宗祖聖人月忌法要」があります。
以下は西本願寺からです。
「50年毎の節目にあたる、親鸞聖人の年忌法要を「大遠忌」と称して、特に大切にお勤めいたしております。
2012(平成24) 年には750回忌の「大遠忌」を迎えました。
私たち一人ひとりが共々に、聖人のご苦労をしのび、お徳を讃えるとともに、浄土真宗のみ教えを深く味わうことのできる新たな機縁とするところに、 「大遠忌」をお迎えする意義があると言えましょう。 」
とあります。
令和5年(2023)宗祖誕生850年法要が開催される見通しです。平成が31年で元号が変わる事から来年には書き換えないといけません。
京都は底冷えで有名です。お出掛けの際には寒さ対策一枚余分にお持ち下さい。読者の皆様、時節柄お体ご自愛専一の程
筆者敬白