2022.07.04
7月
雑節・歴注・撰日

令和4年(2022)7月7日 七夕(たなばた) 織女・夏彦、七夕物語 です。

■7月7日「七夕(たなばた)」です。■

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七夕:たなばた・しちせき」は、五節句のひとつで、7月7日の称。旧暦7月7日の夜のことをいいます。七夕祭、星祭。日本、中国、越南(ベトナム)、朝鮮、台湾などにおける節供、節日になっています。日本では、明治改暦以降は7月7日、または月遅れの8月7日に七夕祭りが行われます。

中国暦においては7月は秋の最初の月「孟秋:もうしゅう」で、7日は上弦の月となります。初春=孟春、初夏=孟夏、初秋=孟秋、初冬=孟冬。七夕は、秋の季語となります。

120625_23.jpg七夕の行事にはいくつかの流れがあり、それらが複合して七夕の習慣が出来上がったと考えられています。古くは「棚機」と書きました。一般的に「七夕:しちせき」を「たなばた」と発音するのはその名残です。もともと中国の行事で、日本には奈良時代に伝わり、日本の「機織津女:たなばたつめ」の伝説と習合して生まれました。

◆七夕の起源(1)◆
◇お盆・乞巧奠の習合◇
日本古来の豊作を祖霊に祈る祭礼の「盆・ぼん」に中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う「乞巧奠・きこうでん」などが習合したものと考えられています。もともと盆の行事の一部が独立した行事になったのもで、笹には「精霊(祖先の霊)」が宿るといいます。

◇「棚機津女の伝説」(古事記)◇
120625_24.jpg棚機津女の伝説は、村の災厄を除いてもらうため水辺で神の衣を織り、神の一夜妻となるため機屋で神の降臨を待つ棚機津女という巫女(みこ)の伝説です。

この伝説と乞巧奠の行事が結びつき、奈良時代に宮廷や貴族の行事になり、やがて民間にも普及し、女子が裁縫の上達を祈る星祭の行事として続いてきました。

笹竹を立て、五色の短冊に詩歌を書いたりして、習字や裁縫など手習い事の上達を願う習俗は、寺子屋が普及した江戸時代になってからのことです。


◆七夕の起源(2)◆
もう一つの流れは、7月の盆の先祖祭の前に、穢れを祓い清める行事。なので、七夕の日には水浴を大切な行事とした所が多く、髪を洗ったり、子供や牛馬に水浴びをさせたり、墓掃除をしたり、井戸をさらったりする風が残されています。水浴びを「ねむり流し」「ねぶた流し」ともいいました。

青森で行われる「ねぶた祭り」も、本来は穢れを水に流す「禊の行事」でした。ねぶた(ねぷた)は「眠たさ」のことで、睡魔を追い払う行事です。秋田の「竿灯」も七夕祭の一つです。

■■「織女・夏彦、七夕物語」■■
昔、中国の漢水のほとりに、織女(しょくじょ)という機織の上手な美しい娘が住んでいました。織女は天帝の自慢の娘でした。天帝は、娘が年頃になったので、農耕に熱心な夏彦を婿に迎えてやりました。

ところが、夫婦となった二人は夫婦生活が楽しく、織女は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなってしまいます。怒った天帝は夏彦を漢水の対岸へ追放してしまいました。

毎日泣き続ける織女を可愛そうに思った天帝は、年に一度、7月7日だけ、夏彦が逢いに来ることを許しました。その日が来ると、夏彦は漢水を渡って織女に逢いに行きました。

しかし、7月7日に雨が降ると漢水の水かさが増し、川を渡る事が出来ません。二人を哀れんで無数のカササギがやってきて、橋を掛けてくれるのでした。

※カササギ=鳥綱スズメ目カラス科。全体は黒色で胴は白色、尾が長いのが特徴です。唐津、伊万里を除く佐賀県全域と福岡県の一部が、生息地として天然記念物に指定されています。

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7月7日は梅雨の時期なので雨の日が多く、七夕に降る雨を「酒涙雨・さいるいう」といい、織姫と彦星が流す涙と伝えられています。

祭りは7月6日の夜、つまり7月7日早朝に行われます。殆どの神事は「夜明けの晩」=午前1時に行われるのが常です。午前1時頃には天頂付近に主要な星々が上り、天の川・牽牛星・織女星が最も見ごろになる時間帯です。

短冊に願い事を書き、葉竹に飾ることが一般的で、この風習は江戸時代から始まったもので日本独特のものです。因みに織姫と彦星が願いを叶えてくれるわけではありません。短冊に書く願い事は「手習い事の上達祈願」が本当です。

五色の短冊」は、陰陽五行説の五色で、青・赤・黄・白・黒の5色です。中国では短冊ではなく、五色の糸を吊るします。海の近くでは、短冊を飾った笹を7月6日に飾り、翌7日に海に流すなどの風習もあります
130627_21.jpg◇◇◇◇編集後記◇◇◇◇
東日本大震災で「東北三大祭り:七夕・竿灯・ねぷた」が脚光を浴びました。以後は三大祭りが拡張して「東北六魂祭り」を改め「東北絆まつり」として互いに励ましあっています。

思い起こせば明治維新のとき、徳川幕府に忠誠を尽くし、「奥羽越列藩同盟」と称して新政府に叛旗翻していた東北の各藩は、東日本大震災でまた一致団結しました。
明治維新当時、新政府は当時の会津藩を他藩の見せしめの為に、完膚なきまで叩き潰し、下級武士はおろか、幼少の子孫にまで自害に追い込みました。これが後世の今日に伝わる「白虎隊」の伝説です。

奇しくも東日本大震災で壊滅的な事故のあった「福島原発」が会津藩のある福島県とは何かの因果怨念でしょうか。「ならぬものはならぬ」の教えが、科学万能の今日に警鐘を鳴らしているのかもしれません。

体調管理の難しい時期です。読者の皆様、お体ご自愛専一の程
筆者敬白

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